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土方歳三は、堅城・宇都宮城を何故一日で落城出来たのか?


慶応4年4月19日、伝習第一大隊、回天隊、桑名士官隊、新選組などで構成された旧幕府前軍(隊長秋月登之介、参謀土方歳三)1,000名は、宇都宮城の攻撃を開始した。

宇都宮城は関東七名城の一つ。
堅城である。
現在では、堀は埋め立てられ、土塁は平されて市街地化しているので、遺構はほとんど残っておらず当時の面影はないが、かつては幾重にも水堀が掘られ、何基もの重層櫓を配した難攻不落で知られていた。

当然1000名の兵力で攻めるには苦戦が予想された。

しかし、土方は奥州からの守りを意識した城の東南方面が弱点であることを見抜いていた。

桑名士官隊と新選組主力の先鋒隊は、宇都宮城、南東に流れる田川に架かる簗瀬橋を渡たり河原門に迫り、門の突破、城内突入を図る。

土方は、激戦に耐えきれなくなって逃げ出そうとした兵士をその場で斬り捨て、「退却する者は誰でもこうだ」と叫んで味方を鼓舞したと言われている。


宇都宮城はわずか一日で陥落。

その要因はなにか?

鬼神と化した土方歳三の戦術眼と采配が光った戦いではあったが、守城側の様々な誤算が影響したと思われる。

宇都宮藩兵は、領内の一揆鎮圧戦が続き、疲弊していた。

宇都宮藩兵は旧式の武装であった。

また、守城側が、簗瀬橋を事前に落として置かなかったという戦術的ミスもあった。

巨大な宇都宮城を守るには兵士数が少なすぎた。
城は大きければ大きい程良いというものではない。
虎口、櫓、枡形などの防御設備にそれぞれ適正な兵士がいなければ、無人の防御線が延び、守りに隙が生まれるだけである。

城に籠もるだろう味方の兵力、仮想の敵はどこか?目的は?といった築城コンセプトは城によって違う。

宇都宮城は本多正純15.5万石が改修した城郭。
おそらく石高から推算したとしたら、4千人程度の兵士が籠もるだろうと設計され、敵は奥州外様大名を想定し、当然敵は北から来襲するだろう、奥州外様大名の侵入を北関東で一時的に食い止め、江戸方面からの後詰めする時間を稼ぐといった築城コンセプトであっただろうと思われる。

しかし、今回は数百人で城を防衛しなければならず、敵は南から侵入ということで、築城コンセプトに反した想定外の誤算があったことが、わずか一日で陥落した要因ではなかろうか。

よくテレビ番組や書籍で「最強の城は?」などと全ての城を一緒くたにして論じているが、はっきり言ってナンセンスであると思っている。

城がいくら巨大だろうが、技巧的であろうが、大事なことはそこを守る兵士である。
また、その城が置かれた状況は様々であり、それを基に築城コンセプトがあって、城は建てられる。
単純に要害堅固を追求できれば良いのだが、コストや人的資源、技術の制約も考えねばならない
従って城は多種多様になり、城の数だけ個性がある。
最強と一言で片付く話ではない。


土方歳三の話から話が逸れたが、何はともあれ、宇都宮城陥落は惨敗続きの旧幕軍にとっては奇跡的な勝利であり、土方は改めて決死の覚悟・軍の参謀能力を遺憾なく発揮したのは間違いないであろう。

現在の簗瀬橋
守城側は前もってこの橋を落としておくべきであった。

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