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幕末の黒羽藩の謎

歩兵銃の優劣が戊辰戦争の勝敗を左右したとよく言われる。

南北戦争で使われなくなった中古の様々な種類の歩兵銃は続々と幕末期の日本へと入ってきたが、施条式、後装式、連発式のスペンサー銃は当時最強の歩兵銃であり、長射程で命中率が高かった。

会津藩士の山本覚馬は長崎でスペンサー銃を購入し、会津に居た妹の八重に送った。
彼女が戊辰戦争の鶴ヶ城籠城戦で城に入り、この銃で奮戦したエピソードは大河ドラマ「八重の桜」で描かれ、広く知られている。

スペンサー銃を調達し実戦配備できれば、対立勢力に対して大きなアドバンテージを得ることができる。
多くの藩組織にとって喉から手の出るほど欲しい武器であったろう。

しかし、この銃は性能の高さ故非常に高価であり、専用弾薬も特別な仕様で全て輸入でしか入手できないことから、限られた軍組織でしか使われなかったのである。

だから、そんな貴重な最新銃を藩兵に標準装備できた藩は全国でわずか二藩しかなかった。
一つは藩主自ら西洋技術開発に邁進した佐賀藩。
もう一つは黒羽藩であった。

黒羽?
くろばねって読むの?

黒羽(栃木県大田原市)は下野国東北部に位置する。
那須の山々と那珂川沿いに広がる田園風景と中世からの土の城である黒羽城からは、幕末最新武装の藩兵組織を有していた藩とはとても想像できない。

第15代藩主・大関増裕は、西洋軍事知識豊富な切れ者で、外様小藩の出ながら初代海軍奉行、若年寄など幕府要職を歴任した。
来るべき時運の急に備え、領内にある硫黄鉱山の収益のほとんどを軍備に注ぎ込み、藩の軍制を洋式化する。
火砲12門、最大1000名の藩兵を動員可能とし、スペンサー銃をフル装備させた。

1万8000石の小藩の軍事力とは思えない規模であり、10~20万石の藩、あるいはそれ以上の藩の軍事力に匹敵すると思われ、当然、周辺諸藩はもちろん西南諸藩にも一目置かれた存在であったと思う。

慶応3年12月、増裕は銃猟中に急死する。
後を継いだ藩主はいち早く新政府軍に恭順し、黒羽藩の精鋭藩兵は東北戦争の新政府軍の先兵として従軍することになる。
黒羽藩の活躍ぶりは新政府軍に大いに評価され、戦後1万8000石規模の藩としては破格の永世賞典録1万5000石が贈与された。

増裕の急死の死因については謎が多く、事故死、自殺、他殺と諸説ある。
もし、存命であったら、どのような決断をしたのだろうか?
黒羽城近く大雄寺の彼の墓前で思いをはせた。

大雄寺にある大関増裕の墓
彼の死は今もって謎である

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