飢餓の村で考えたこと 5

きっかけ

商業高校を卒業して製薬会社に入社した。プロパーと呼ばれる医者を訪問する営業マンだ。東京や川崎を担当し23歳までその仕事をやった。営業に関しては成績も上がらず劣等意識を秘めていた。

ある日の日曜日新宿に出て歩行者天国を歩いていると10名位のグループが道路にチョークで文字を書いたりハンドスピーカーを持って歩行者に語りかけていた。私はポケットに手を突っ込み小銭数枚を募金箱に入れた。その時に渡されたチラシが自分の人生を大きく変えることも知らずに。

数日たってズボンをクリーニングに出すときにそのチラシに気が付いた。チラシにはペルプ・バングラデシュ・コミティ(NGOの名前)はバングラに駐在員を送り、市民レベルの活動を行っていると書かれていた。「市民レベル」という言葉が妙に新鮮に感じられたことと、「現地に人を派遣している」ということに興味をひかれた。

チラシを見たときは平日の夕方だったがすぐに電話をしてみた。その時点ではまだ活動地と書いてあるバングラがどこにある国かも知らなかった。電話に出たのは当時のこのNGOの委員長だった。どこにいるのかと尋ねられ世田谷の経堂だと答えると今定例会をやっているからすぐ来ないかと誘われた。

経堂駅からは小田急線一本で来られるからというのでそのまま小田急線で参宮橋駅に向かった。その定例会は週一回行われている夜の会議だった。その会議に参加している人たちは私の日常には全くいないタイプの人たちだった。

その主要な参加者数名はバングラ独立戦争直後の1972年にバングラの農村で耕耘機を動かす独立復興支援活動を4か月間行って帰国したばかりの人たちだった。彼らがこのNGOを立ち上げたのだ。彼らにはバングラでの活動体験の余韻がまだ生々しく残っており現地のことを話す時は一段と目を輝かせた。

彼らにとってこの活動の体験がいかにすばらしかったかが伝わってきた。私が仕事で接している人たちにはない目の輝きの魅力にたちまち引き込まれてしまった。そして私はこのNGOにかかわり始め、やがては会社を辞めてバングラの駐在員になったのだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?