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大事なことは二回言う | 舟越節/唄いはじめ 7/東京から唄う八重山民謡

舟越節[ふなくやぶすぃ]
伊原間ゆ立てぃだす 舟越ゆたてぃだす スリユワイヌサースリユバナウレ

玉代勢長傳編『八重山唄声楽譜付工工四全巻』(1989)pp.13-14
※引用は2006年版から

 伊原間は石垣島の陸地が極端に幅狭くくびれているところで、その幅200メートルほどだ。玉取崎の展望台からは、環礁とそのくびれを鳥瞰図のように見下ろすことができる。石垣市街から距離はあるが、幾度となく訪れていたこともあり、「舟越節」を習ったときにすぐに伊原間の景色が脳裏に浮かんだ。島々、村々を詠んだ唄を同定しながら唄うのは、八重山民謡の楽しみ方の一つだろう。

 その伊原間村は明和の大津波(1771年)で大打撃を受け、約3キロメートル離れていた舟越村と合併したころに、「舟越節」はできたといわれている。舟越の名前は漢字の通り、幅狭い地の利を生かして、半島を海路で迂回するのではなく、舟を担いで陸路を越していたことに由来するのだという。

 第1句の歌詞は、一見すると前半と後半で対句のような形になっている。対句とは詩や散文に見られる表現形式で、並んでいる二つの句の語順や意味が対応関係にある。強調の効果があったり、対照させる面白さがあったりする。例えば『平家物語』の冒頭、「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理を表す」がそれだ。

 ただ「舟越節」には、いわゆる対句とはちょっと違うと思わせるところがある。別の語に置き換わることなく、両方とも「立てぃだす」といっていることが一つ。もう一つ、「伊原間」と「舟越」も先に言ったように、唄ができた当時は一つの村だったのだから、つまりは前半と後半は同じことを言っているのだ。まったく同じことばを繰り返しているわけではないけれど、意味の上では「大事なことだから二回言った」ことになる。

 第2句から7句も見ていこう(囃子は省略した。〔 〕内は筆者による追記)。

たるぬ主ぬたてぃだね 何りぬ親ぬたてぃだね
うんぬ主ぬたてぃだす みづぃんびらまぬたてぃだす
うんぬ主や頭ゆなり給んな〔給んな〕
  みづぃんびらまや目差ゆなり給んな〔給んな〕
居るな居るみるけど 立つぃな立つぃみるけど
伊原間どぅさにしゃる 舟越どぅさにしゃる
うんぬ主や頭ゆなり給り〔給り〕
  みづぃんびらまや目差ゆなりたぼり〔たぼり〕

舟越節

 第2句以降も、前半と後半は同じ内容を繰り返しているのだ。メロディに乗せてさらさらと聞き流されては困る、伊原間村のことを頭に叩き込んでほしいという熱意に溢れている。と、それは言い過ぎだとしても、歌詞を覚える側からすると、前半さえ思い出せば後半を連想できるので、まんまと策にはまっている。

 この対句的「大事なことだから二回言う」構造は八重山民謡には無数に見られ、これまで引用したなかでは、「鷲ぬ鳥節」の「綾羽ば生らしょうり びるぱにばすだしょうり」、「あがろうざ節」の「あがろうざぬんなかに どぅぬすくぬんなかに」「墨書き上手なり給りよ 筆取り上手なり給りよ」、「前ぬ渡節」の「ぱなれまぬ前ぬ渡 波照間ぬ北ぬ渡」がそうだ。

 「舟越節」でさらに特筆するなら、第4句と第7句だ。見た目にも長いのがわかるが、驚くなかれ、第4句だけで2句分なのだ(第7句も同様)。第4句の「うんぬ主や頭ゆなり給んな給んな スリユワイヌサースリユバナウレ」で間奏が入り、続く第5句のような感じで「みづぃんびらまや目差ゆなり給んな給んな スリユワイヌサースリユバナウレ」と唄う。それならいっそ第4句と第5句にしてしまえばいいじゃないか、と言いたくなるが、そこでこの対句的構造を思い出してほしい。2句分ある歌詞を合わせて第4句としているから、「大事なことだから二回言う」構造になり得るのだ。長くなったら句を分けるのではなく、長くなっても同じ句のなかで「大事なことだから二回言う」ほうが優先されるために、第4句と第7句は他の句の2倍になっている。

 いや、2倍になるには文字数が足りなかった。そこで字数を補うために、第4句では「給んな」を、第7句では「給り」を2回繰り返して、メロディに字数を合わせた。同じ言葉をちょいと繰り返して字数を合わせるのも、八重山民謡ではたまに見かける手法だ。そこまでしても、頑として「同じことを二回言う」。

 八重山民謡風にまとめてみよう。

 大事なことは繰り返そう、覚えて欲しいことは繰り返そう。


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