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テイラー・スウィフトはいなかった

 今年の1月に高校の同窓会に出席した。そこで、とある男と話をした。高校の裏門前で、仲間と赤いヘルメットをかぶり、マスクをして、狭山裁判や三里塚闘争のビラを配っていた男だった。
 在学中、彼とは、ほとんど話した記憶はない。ないような気がする。
 Facebookのおかげで、昨今では、昔の友人、知り合いとも交流ができる。その場所で、軽く交流していた。
 彼は、私の小説を読んでくれていた。

 彼と同窓会で、話をしたことがきっかけになって、私は、「テイラー・スウィフトはいなかった」という小説を書いた。在学中、「応援団リンチ事件」というのがあり、彼はそのとき部室で、退部をめぐって、ボコボコにされた人物だった。その事実は、生徒には、うわさ程度でしか知らされていなかった。
 私は、その事件を含めて、当時のさまざまなことを思い出した。

 私は、彼のキャラクターをベースにして、小説を書き始めた。書いた原稿を彼にメールで送り、事実や細部をチェックしてもらった。それを何度か繰り返して出来上がったのが、以下に掲載する小説である。
 なお、この小説に出てくる人物、つまりYは、それらしく書いてあるが、半分は、私のフィクションである。そのことを含めて、了承をもらった。

 この「テイラー・スウィフトはいなかった」は、「ジェフ・ミルズはいなかった」「野中リユ」の2編とあわせて、本にする計画である。
 5月中旬発売の予定で、詳細は、また後日、お知らせします。
 どうぞ、そちらもよろしくお願いいたします。


                                       *


 深々とした青空からチリンと鈴の音が鳴ったような気がした。

 イヤホンを取り出して、耳に当てた。ダウンロードしたテイラー・スウィフトの曲がスマホから流れてきた。
 好きな音楽だった。
 車窓の風景は、流れが速い川下りのように去っていく。
 四十年ぶりの駅だった。テイラー・スウィフトを聴きながら、その駅に、降り立つことがあるなんて、考えてもみなかった。奇妙な気分だった。あたりまえだ。あの頃、テイラーは生まれていなかったのだから。初めてのときには、スマホどころか、ウォークマンすらまだなかったのだ。
 あれ。あの頃は何を聴いていたんだっけ、と私は考えたが、ピーター・フランプトン「君を求めて(Baby, I Love Your Way)」しか思い浮かばなかった。
 駅に到着して、改めて駅名を確認した。
 懐かしい駅である。
 駅名は変わっていないが、ホームはすっかりこぎれいになっていた。階段のわきにはエスカレーターがついている。迷わず、エスカレーターを選ぶ。迷わない、というところに、年齢による肉体の衰えを感じる。
 改札を抜けた。
 駅前を見回す。書店がなくなっていた。ひらがなの店名の、今風の居酒屋になっている。
 そんなことは、いまどき珍しいことではない。
 それでも、軽いショックがあった。本はどこで買ったらいいのだろうか、と。ネットで買えば簡単である。手間もかからない。いまではそうなるだろうが、当時は違う。学校帰りに手軽に寄れる書店がないとはどういうことだ、と思うのだ。
 私はどうやら、当時に軽くタイムスリップしているようだった。思考が混乱している。
 線路わきの小道を歩き始める。草がはえているような道だったが、いまは、アスファルトに舗装されている。
 踏切があった。この踏切の印象は、当時とまったく同じだった。劣化ぶりまでも変わらないように見える。が、もちろん、そんなことはないのだろう。踏切にだって、おそらく使用期限がある。それが何年、何十年かなんて考えたことがなかった。ひさびさにここにきて、初めて考えたことである。
 この踏切は、毎朝数分間、電車が頻繁にいきかい、開かずの踏切になるのである。警報機の音を無視して、ダッシュで遮断機のポールをくぐったものだ。カンカンカンカン。警報機の音が頭のなかに鳴り響いてきた。
 踏切を渡ると、下校時に買い食いした個人経営の商店が見えてきた。長い年月をかけて埃にまみれ、薄汚れていった印象のシャッターが降りていた。

 この駅をふたたび訪れた理由は、語りたくない。

    

 自由な校風の高校だった。制服もなかった。生徒の自主性を重んじるといえば聞こえがいいが、放任主義といえばそうなる。ぬるま湯のようだった。
 それでも、あれこれ生徒の生活態度に口を出してくる面倒臭い教師はいる。地学のサセヲだ。
 自分の思い通りにサセようとしているかのように注意が多い。生徒から揶揄を込めてサセヲと呼ばれていた。生徒指導担当の先生は別にいるので、よくいえば教師の使命感、悪くいえば個人的な趣味でやっているのだろう。大多数の生徒から嫌われていた。

 私が高一のときのことだ。ある噂が流れてきた。Yの話だ。
「半ズボンで学校にくるなんてどういうつもりだ」
 サセヲに注意されたとき、Yはこう答えたというのだ。
「半ズボンじゃありません。バミューダです」
「下駄を履いて、学校にくるやつがいるか」
「正しく下駄箱に入れました。下駄ですから」
 真偽のほどはわからない。
 Yは髪が短く、痩せてはいるが筋肉質で逞しく、精悍な顔つきをしていた。言動がいちいち派手で、目立つ。顔面にもその姿勢があらわれていた。この学校には、それとはまったく反対の方向で生息している生徒もいる。何というのだろう、存在が空気になじんで溶け込んでしまうというか、存在が曖昧になって消えて、透明になってしまうような生徒である。教室における透明人間化、というか、教室のどこにいるのか、わからないという生徒である。ちなみに、透明人間化が悪いわけではない。そんなことは思っていない。それを望んでいる人間だっているのだ。透明でありたい。ひっそりと存在していたい。できるだけ目立たず。そういう人間だっているのだ。私だ。
 いつだったか、Yたち数人は校門でビラを配っていたが、その場で教師につかまっていた。赤いヘルメットを揃ってかぶり、マスクをしていた。顔を隠していても、わかるものはわかる。Yは社会学研究会に入っていて、そこでの活動の一環のようだった。当時私の高校では「白ヘル」(革共同系)と「赤ヘル」(ブント系)という、二つの新左翼党派が競い合いながら活動しているといわれていたが、内容の詳細は知らない。Yはその区別に倣えば、ブント系のようだった。
 Yが教師から睨まれているのは、たしかだ。教師の心証を害することはしない。何となくそう思っている私は、無意味なことをやっているなというより、Yが羨ましいと思った。Yは主張している。
 私は帰宅部だった。いや、SF小説好きの友だちがいて、SF研究会を作ろうといわれたことがある。自分たちで新しい部(研究会)を作る。それも悪くないな、と思った。SF小説については、大して興味がなかったのだけれど。その友だちは平井和正「ウルフガイシリーズ」が好きで、私も貸してもらい、数冊読んでいた。ハードボイルド・バイオレンス小説だった。友だちは、平井和正やかんべむさし、豊田有恒、山田正紀のファンだった。放課後、放送部に頼んで校内放送をしてもらい、入部希望者を募った。「SF研究会って何ですか?」と放送部員にいわれ「SF小説を研究するんです」と何の説明にもなっていないことを説明した。誰もこなかった。学校側に相談もしないで、新しい部を作ることなんてできない。いま考えればそうなるが、当時はそんなことを考えもしなかった。
 いずれにしろ、その企画はそれで終わり、学校側に知られることもなく、何事もなかったかのように高校生活は過ぎていった。
 その友だちはSF小説も書いていた。SNSが発達しているいまの高校生は、そんなことをしないかもしれないが、クラスでグループに分かれ、好きなことについて各自で文章を書いて回覧する紙のノートがあった。その友だちはSF小説の感想とともに、小説を書いていた。ショート・ショートのときもあったが、ときには連載になることもあった。回覧ノートに書かれた作品を読んだが、残念ながらまったく面白くなかった。SFファン向けに書いているので、自分にはわからないのだろうか、と私は考えた。いやいや、彼が推す平井和正の小説は面白かったので、これがプロとアマチュアの差なのだろうとも思った。とはいえ、本人に向かって、そんなことはいえなかった。
 その友だちとは二年になって、クラスが別になり、自然に疎遠になった。
 化学部に入ったこともある。一瞬だけだ。少人数の部活だったが、先輩たちでカップルができあがっていた。部活の内容は嫌ではなかったが、先輩たちの恋の邪魔をしているような感じがあり、居心地が悪かった。まもなく辞めた。それ以来、帰宅部ライフを満喫している。

 早々に自宅に帰って、私は音楽を聴いていた。貴重な情報源はFMラジオだった。音楽が好きだったが、当時は情報がなかった。「FM Fan」や「FMレコパル」を買っていた。マニアックな音楽は知らなかった。ピンク・フロイドやEL&P、イエスやキング・クリムゾンが最先端だと思っていたのだ。カーペンターズやレオ・セイヤーのようなポップスよりは最先端だ。
 とはいえ、プログレより、ピーター・フランプトンが好きだった。ボストンが好きだった。エレクトリック・ライト・オーケストラが好きだった。
当時はベイ・シティ・ローラーズが流行っていて、クラスの女子が熱狂的に話していた。私は、ローリング・ストーンズの名曲をパクって、イッツ・オンリー・アイドルソング、バット、ドント・ライク・イット、と心のなかでうたい、勝手にディスっていた。

 私は詩や小説が好きで、文庫本を買い、それでも補えない本は、図書館で借りていた。自宅で詩を書き、当時あった「高一タイム」という学年別の雑誌にこっそりと投稿していた。誰にもいわずに。
 投稿欄は、一席、二席、三席、選外佳作と分かれている。たまに三席になって詩が掲載されることがあったが、多くは選外佳作だった。
 名前が小さな活字で掲載された。

    

 「猿の惑星」シリーズは映画史に残る名作として知られているが、テレビ版「猿の惑星」のことはどうだろうか。
 中学生のころ、テレビ版「猿の惑星」が放送されていて、私は強く魅せられ、心をぎゅっとつかまれていたのである。毎週、熱心にテレビの前に座っていたが、ある日、突然、打ち切られた。視聴率がよくなかったらしい。アメリカでも同様で、人気が振るわず、第一シーズンのみで放送を終了したという。
 私はこの「猿の惑星」の大ファンで、テレビの前にラジカセを置いて、カセットテープに録音していたほどだった。いうまでもなく、映像はついていない。声優のせりふと音響のみである。いまとなっては、それでよく楽しめたものだと思うが、それでも満足だった。
 繰り返し再生して、一人で聴いていた。

 灰色の青春ではない。
 そこそこの楽しみがあった。ブルー。違う。ピンクでもない。イエロー。ノーだ。ホワイト。グリーン。パープル。ブラック。すべて違う。私の青春に色彩はなかったのである。
 それがつづいていく。

 鈍い光を放つ私の日常を輝かせる起爆剤とはいったい何だろう。恋だ。それも薔薇色の。女子である。さらに付け加えれば美少女。美しい、かわいい。つき合ったことがないので、実際はわからなかったのだけれど。
 妄想である。
 自由な妄想の世界が、私を育てたのである。

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