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最後まで読み通せる自信がない

 黒田夏子さんの芥川賞受賞作「abさんご」を読んだ。

 最初のパラグラフを読んだだけで、この「abさんご」の世界にあってはテーマとか趣旨とか、あるいは物語ですら、不純物であるということに気がつく。ひらがなで刻まれた、柔らかく、豊潤な文章を読む快楽だけがページからこぼれ落ちている。それはまばゆいばかりに。読者は黒田さんが紙に刻む、ことばの響きとリズムに乗り、あるいはただ耳をすますように活字によって綴られた私的な風景を丁寧に目で追っていけばよいのだ。
 昔、黒田さんがテレビに出演した(ゴロウデラックスという番組である)とき、次のようなことをたしか語っていた。「句読点ひとつ、私は編集者の意見を受け入れません。一字たりとも動かしません。考え抜いたうえで、書いているからです。その点に関しては、私は頑固です」
 すごい! 私など(作品のレベルにおいて比較のしようもないが)、読んでくれたひとの意見をどんどん(もちろんある程度、考えたうえでだが)受け入れる。書き直してしまう。それくらいのことで、自分の作品が崩れるとは思っていないから。他人の意見が入ったくらいのほうが、その小説世界がより豊かになるのではないかと考えているからだ。
 黒田さんの作品は他人の意見を毅然と拒否することによって、みごとにことばの王国を築いている。
 書き出しはこうだ。

 aというがっこうとbというがっこうのどちらにいくのかと、会うおとなたちのくちぐちにきいた百にちほどがあったが、きかれた小児はちょうどその町を離れていくところだったから、aにもbにもついにむえんだった。

 時空を超えた視点で書かれていて、意味がすっと頭のなかに入ってこない。頭のなかで何度も文章をころがすことによって、意味はわかるようになるが、この文章は意味ではなく、もっとべつのものをつたえる。
 これこそが文学というものだが、そのようにして書かれた「abさんご」を、未熟者の私は、最後まで読み通せる自信がない。そう思いながら、読了した。

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