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はじめての老い -等速じいさん-

ふとした時に自分の口から「等速じいさん」という言葉が飛び出した。
自分でもビックリして、その瞬間「等速じいさん」という言葉が実体化して口の前に無限コピーされていくような気持ちになった。これはアレだ、空也上人立像だ。

確か妻との会話の中、「アレ見てみてよ、倍速でいいから」というお勧めに対して、いやほら俺「等速じいさん」だから、と。
等速じいさん? なにそれ!
これ、うっかり口走ってしまったものの、老い現象としてのステイタスは「保留」であります。加齢による等速なのか、それとも私の頑なさなのか、美学なのか。美学じゃないといいと思ってるんだけど。

さて、すでにお気づきかと思われますが、私はなんでもかんでも等速で見るマンです。
わかってるんです。めちゃくちゃわかってるんです。時代は等速じゃなくて1.5倍速だと、2倍速だと。

動画を観る時に、ワカモノが倍速で見るんですよ、とね。映画でもなんでも倍速で見ますよ、と。
それをケシカランと思う人もいるみたいですが、いいと思うんです。
本の速読が褒められるなら、動画の倍速視聴も褒められてよいんじゃないか? と私は思っています。

ただ、恥ずかしながら自分は未だに「等速」に留まっている。そう留まっているという気持ちになっている。小さな等速の島の小屋から、世界がものすごい速さで動いているのをアワアワとした気分で眺めている。小屋ニスカッティである。
ついていけてない。これも老いか。老いなのか?
等速はじいさんの照明なのか。
わしゃあ、のう、倍速とかようせんのじゃ。てことなのかな。

私はこういう文章を激しく老いながら書いているわけですが、さすがに一日中「ただ老いている」わけではなくて、仕事もしているんですよ。生きるために。職業を編集者と名乗っているのですが、同時に思いっきり大学の専任教員でもあるのです。いや、もうそろそろ四十郎、じゃなくて、もうそろそろ仙人教員だが…。
そしてね、いまどきの大学教員は、「ビデオ教材」を作ることを課されがちなわけですね。私の場合は、オンデマンド授業という名の「ビデオ教材」を、多い時期には90分の授業を毎週2本作ってたりします。ちょうちょうちょうちょう、ちょう面倒くさい。
で、このビデオ教材の中で
「これ倍速とかで見ていいですからね」と度々言ってたりする。
これは別にワカモノにおもねっているつもりはまったくなくて、こうした教材ビデオを等速で視聴することになんの意味もないと思っているからですね。時に資料として、映像等を引用してる部分は等速で見てほしいけれど、私のしゃべりは、あー、とか、えー、とか、むー、とか、ぽー、とか、ぴょー、とか冗長な音がいっぱい入っているわけじゃないですか。息するたびに飛び出た鼻毛も揺れるわけじゃないですか。倍速以上で見たほうがいいですよ。鼻毛がすごい速さで揺れたら面白いような気もするし。間違ってもスローで見ないほうがいい。鼻毛がなんかエモいことになってよくわからなくなるから。

そんな風に常日頃から「倍速」をおすすめしている。
自分のものだけじゃなくて、YouTubeのチュートリアルをお勧めする時などにも倍速リコメンドですわ。

んまー、でも、映画に関しては違うかな。時間芸術なので、その時間を体感しないとそもそも見たことにならないのではないかと。タルコフスキーを倍速で見たら、それはタルコフスキーではないでしょ。
もちろん制作者に対するアスベストもある。リスペクトだった。リスペクトもある。作者がこれが正しい姿であると提示したらそれで見たいじゃない? いうても映画をこのパソコンの画面で見てる時点でどうなの? とは思うわけですけども。でも映画監督がテレビ放映時のカットやアスベスト比じゃなくてアスペクト比の変更を許さなかったりするの好きです。いいぞもっとやれーて思います。

それは置いといて(すぐ置く派)、チュートリアルとかは倍速で見たらいいじゃないですか。おまえらタイパが大事なんだろうなんだろうタイパ。なんだよタイパ。知らんけど。
それも置いといて、時に倍速はいいものですよ。だいたい倍速でいい! はず!

なんですけども〜、自分は単なるチュートリアルビデオなども、ついつい「等速」で見てしまう。
なんでか「等速」。
気がつけば「等速」。
「留まって」いる。いやちがう「捉われている」のか?
抜け出せないのか「等速」の呪いから。加齢によって呪いから抜け出せないのか??

と書いては見たものの、それもちょっと違うかもしれないと、私の妖怪アンテナが反応している。

捉われていると書いたけど、すぐにでも「倍速で見る」ことは、できる気がする。そしてそれにやすやすと慣れてしまう気もする。慣れるだろうさ。慣れるだろうよ。
そして戻れなくなるだろう。もうどんどん倍速で見るようになるだろう。
なんでもかんでも倍速で見るようになるだろう。
なんならタルコフスキーも倍速で見るかもしれない。見るね。見るわよ。絶対見る。むしろ最初に見るわ。

そうなってしまうだろう予想におののき、そしてそうなってしまった自分に先回りしてさみしさを感じているのかもしれない。ゆえに倍速で見ることができない。だから、これを「老い」のなせるわざなのかどうかは「保留」中であります。

あ、でも、このやたらセンチメンタルな感じは、もしかして「老い」??


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