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自治会活動が大学院生に教えてくれたこと

突然ですが、
もしも、あなたが参加している自治会に近所の大学生やってきて、
「住みながら自治会活動に参加する」としたら。

どんなことが起こりそうでしょうか?
そんなことを想像しながら、これからの文章を読んでもらえれば幸いです。

-私はとある大学の院生です-
市営住宅に住みながら自治会活動に参加する生活を始めて3年が経とうとしています。その市営住宅では、1つの棟に、7人の学生がそれぞれの部屋を持って住んでいます。

先日、1年を総括するべく年間報告会が行われました。
今回は、そこから一部抜粋をして1年の振り返りをしたいと思います。

1.市営住宅に住んで自治会で何をしている?

「大学生が市営住宅に住んで自治会で何をするの?」
認識を合わせる意味で、最初にこれを説明しておきたいと思います。

私たちは、大きく分けると「①地域行事のお手伝い」と「②学生独自で考えたこと」をしています。

1-1.地域行事のお手伝い

主には、地域で年1回行われるお祭りの運営や
地蔵盆(京都の夏の風物詩)のお手伝い、
ソフトボール大会のお手伝いとかがあります。
終わった後は慰労会とかで、楽しく参加者でワイワイしてました(たのしい)。

私たちが住む前から自治会で行われていた行事を手伝いながら、
「地域で暮らす」ってどういうことなのかを身をもって感じていくカンジです。

1-2.学生独自で考えたこと

学生独自で考えて行っていることもあります。
例えば、小学生の朝の集団登校お見送りや、
夏のラジオ体操の企画・運営、住宅前の花壇を緑化するなど。

この市営住宅に大学生が住み始めたのは4年前ですが、
それらの積み重ねで生まれてきたものをしております!
(活動の経緯とか、それぞれの記録は追々NOTEにできたらしますね)
→ブログがあるのでよかったら覗いてください!

住みながら僕的に大切にしていることが2つあります!
1.「演習」ではなくて「暮らす」という感覚を掴むこと
2.「がんばる」のではなく「あそぶ」こと

以下は「暮らす」感覚とは何で、「あそび」がどのように作用するのか。
住んでみて感じたことを次に述べたいと思います。

2.「演習」ではなく「暮らす」ということ

まず「暮らす」感覚と「演習的」感覚の違いはざっくり2つあると思っています。(これももっと深く考えて書きたい….)

1つ目思考の順番です。

皆さんは毎日の生活の中で、
突然「周りの人き込んでラジオ体操をしよう」と思ったことはありますか?
もし、ラジオ体操をしようと思ったしても、それは突然ではなく、
何か「きっかけ(ex.健康志向な人と知り合ったなど)」があって始めるのではないかなと思います。

つまりは、きっかけ→行動の順番ですね。

でも、「住む」ということを「演習」的に捉えている人は
何かしなければならない!⇨考える→行動
つまりは課題感が先行してしまいがちなんですよね。

後者がダメというわけではないのですが、
後者の感覚が強すぎると空回りしちゃうんですよね。
共感が得られないというか、、、上手にコトが運ばずに失敗したこともあります。

だからこそ、暮らすということは授業でも課題でもなく生活の一部なんだ!
という認識を持つことが大事だし、
モチベーションも落ちにくいので、
身も滅ぼさないなぁと個人的には思っています。

2つ目に「立場」の使い方ですね。

-自らを「住民」と名乗るのか「学生」と名乗るのか-
もちろん僕たちは「住民」でもあり「学生」でもあるのですが、

僕は個人としては、
対等な立場としての「住民」という言葉を使うことが、素敵だと思うんですよね。
目の前の課題に一緒の立場で悩める一つのツールを増える感じがします!

例えば、『忙しくて中々、地域の行事に参加できない』としましょう。
それに対して、
学生としての学業が忙しい」説明をしたら、
学生の時間管理の問題として対処することになります。

ですが「生活と活動のバランスを取れず、忙しい」であれば、
現代の共通の悩みとしてその上でどんな運営が良いのか共に悩めたりする。
⇨活動の時間帯の調整などなどを一緒に考えれたりしやすくないですか?

あくまで例えばの話なんですけど、
共に考えらる立場を大切にしていった方がいいのかなと思います。

「学生だから」という言葉は楽っちゃ楽なんですけど、
割り切ることを積み重なった先の自治に何が残るのかなとか思ったりします。

この2つが「演習」と「暮らす」の違いを言い表すのかなと思ったりしています。

演習的に参加すると、
「学生」であることが、立場としても、思考としても、
もともと住んでいる住民さんとズレていくのかなぁという感覚的に思ってます。

3.「がんばる」のではなく「あそぶ」ということ

これも大事なことで、難しいんですよねえ…

さっきの「暮らす」と「演習」の違いの話にも近しいかもですが、

がんばってる感覚が強すぎるのって限界があるなあと思うんですよね。
何よりも続かない。

住むということは日常・毎日な訳でして、
無理して毎日生きていけない訳じゃないですか。
なので、やりたいことしてるな!
面白いなぁという感覚を皆でデザインしていく工夫って大事だなと思っています。
(というより、最近改めて思うようになりました)

僕はその大事さを心の底から必要だと思えるのに、
3年かかったかなと思ってます(笑)

もちろん、1人で支え合いの中で生きているので、
想定外のこととか、ちょっとめんどくさいかなあ…?
と思うこともあるんですけど、

それが人生だと思うし、「それすらも楽しんでやるぜ!」
と思える『仕組み』と『雰囲気』が大事なのかなとも思います。

4.まとめ

整理すると僕の頭の中はこんな感じ。

僕的に自治に対して大事だと思うコト

整理して考えると、自治の中で「あそぶ暮らし」って大事だと思うんですよね。
もちろん遊んでばっかじゃ成り立たないことだって沢山あるんですけど、

最近読んだこの本で触れられる「遊び」で好きな話が2つあって、

1つは、幼稚園児が「縄跳び遊びが終わったら遊んでもいいー?」と言ったりする
1つは、車のハンドルのゆとりのことを「遊び」とよんだりする

という文章があります。

前者から見える、自分達がしたいと思っていることを遊びと呼ぶ感じ
後者から見える、一見必要そうではないが、実は重要なコトに遊びを使う感じ

このニュアンスが好きだなと思っていて、
それを踏まえて、自治における「あそぶ暮らし」の実現を如何に作っていくのか。
そんなことを考えているとワクワクしてきます。

まあ大層な感じで書きましたけど、
僕たちは暮らしているだけなんで、
そこまで大袈裟なことではないんですけどね。

でも、共に悩み・共に笑いをいかに大事にするのかを、
もっと深く考えていきたいなと思いました。


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