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ファッションキュレーター宮浦晋哉の自己紹介

このnoteをはじめて1年、事業を開始して7年が経ち、
オンラインでもオフラインでも『はじめまして』の機会が増えてきたこのタイミングで自己紹介を記録しようと思いました。

2020年に入ってなんとなく会社も転換期と感じていた矢先、新型コロナウイルスの発生。5月24日、緊急事態宣言が明けるであろう前日に書きはじめています。更新されていく部分もあるのでリアルタイムで公開しながら書いていきます。雑な感じをおゆるしください。

他人のグダグダと書かれた自己紹介文を読むのはしんどいけど、そんな感じになってしまいました...

さて、ファッション、服、テキスタイル、繊維産地... ある日の興味から事業になって、現在どんな仕事をしているのか。


1. 自己紹介


大学入学初期
千葉県松戸市の出身。古着の街・柏の影響を受けて高校時代にファッションに興味を持つ。高校卒業後は理系の大学とダブルスクールする形でエスモード東京校の夜間部に通い、2年後に杉野服飾大学に編入する。エスモードのクラスメイトに誘われて早稲田大学の「繊維研究会」というサークルに入ることになった。また別のクラスメイトに誘われて「coconogacco」というファッションスクールに入った。20-21歳くらいの僕はこの繊維研究会とcoconogaccoからたくさんの影響を受けたので、エスモードの夜間に入ったことが大きな転機だったのかも。それぞれのコミュニティを一言で表すと繊維研究会は"服ってなんだろう"を考える場で、coconogaccoは"自分ってなんだろう"を考える場だった。服飾大学は服を作る手段を教えてくれた。在学中は、大学近くの縫製工場で3年くらい働かせていただいた。縫製工場での時間は毎日がリアルでとても勉強になって、無力の僕を有給で雇っていただいて心の底から感謝しかない。職人さんたちは基本こわかったけど優しかった。無口だったけどよくお菓子をくれた。有給でなければ3年も続けられなかったかもしれないし、得られるものはもっと少なかったと思う。ちなみに自身の道はデザイナーではないことに気づいたのは20-21歳くらい。


2011年 
大学卒業後、繊維商社さんのバッグアップを受けて、奨学生としてロンドンに留学。London College of Fashionという大学に在籍して、ファッションメディアやファッションキュレーションについて学ぶ。学部じゃなくてディプロマという単年で受講するコース。連携する6つのカレッジの図書館を全て利用できて紙モノを読み漁った。クラスメイトたちはさまざまで、卒業後にファッションブランドに入ったり、PR会社、ジャーナリスト、VMDになっている様子。ロンドンの生活を思い出そうとすると、主食だったセインズベリーとうスーパーのビスケットのパサパサの味が思い浮かぶ。在学中にギャラリーを借りて、日本のファッションブランドの服を集めた展示会を2回開催した。この時に「Secori Gallery(セコリギャラリー)」という名前で活動しはじめる。自分が思う価値を自分なりの形と言葉で、他者とコミュニケーションを図るという取り組みだった。同時に水面下でビジネス支援を受けられるコンペに論文を出したりポートフォリオを出したりもしていた。留学期間をまとめると、日本人としての自分、アイデンティティやルーツを見つめ直し、"日本"を俯瞰して考える時間になった。そして日本産のテキスタイルがヨーロッパでめちゃめちゃ輸出(評価)されている事実を知って、強烈に日本の産地に興味が湧いた。留学中にお世話になった方は両手で収まらないし、強烈な影響をくれた人も多かった。


2012年
ロンドンから帰国してすぐに八王子のみやしん(現 : ファッションテキスタイル研究所)さんに行って衝撃を受けた。みやしんは業界では知らない人はいない有名な機屋さん。テキスタイルのおもしろさを見せてくれた。タテ糸とヨコ糸を交差してるだけでなんでこんなに...と疑問と好奇心が溢れた。みやしんの社長の宮本さんは覚えてない様子だけど、『日本の産地に興味があると言うのならば、自分の足でまわって見ないと。』と言ってくださり、その場で大量の産地関係の資料をコピーして分けてくれた。そこから確かめるように、週1-2で産地に行きまくった。工場見学してお話を聞かせてもらった。いきなり電話やメールをしてアポイントをいただいたけど、皆さん温かく迎えてくださった。かなりのロン毛と髭だった。 3ヶ月間くらい産地取材をしながら文章と写真が溜まってきたので、本にしようと思い立った。自分にできること、自分がしたいこともまとまってきたのだと思う。


補足 : 工場を50箇所くらいおじゃましていくと、ふと、皆さんが同じようなことを言ってることに気づいた。
・現場にデザイナーが来なくなった
・年々売り上げが下がっていて何かしないと
・現場でされてることがすごくて、作ってる素材がめっちゃ面白いのに『え、こんなの普通だよ』という感じ(ズレ)

業界がスッパりと分業していて職人とデザイナーに距離があることに素人ながら違和感を覚える。問屋があることや、間に数社入るような業界構造も走りながら学んでいく。


2013年
年明け早々に『Secori Book(セコリブック)』という書籍を自費出版する。たくさんの協力があって形になった。出版イベントをするなど、事業の本格スタートはこのとき。書籍は各地に卸したり手売りやネットでも販売した。本の売り上げが交通費となりまた産地に行きまくった。夜行バスと宿泊激安プラン(ネットカフェ含む)を活用すると10000円もあれば1回出張できた。宿泊代の節約にもなるので夜行バスの乗り継ぎもしていた。産地を訪問すると生地をもらえたり買ったりして家が生地でいっぱいになったし、今度はそれらを見せる場が欲しかった。 不動産屋さんも回ったけど貯金はいつも数万円しかなかった。紆余曲折があり、中央区月島にある築90年(当時)の物件を借りることができて、コミュニティスペース「セコリ荘」として開所。7年ほど空き家だったこともあり住みながら改装することに。この時、創業助成金を活用した。「まめちょうだい」という最高の建築ユニットが全部やってくれた。はじめて仕事で文章を書かせていただいたのはこのころで、「装苑」のテキスタイル特集。そして、仲間たちと柏でコットンを育てはじめた。日本各地にいる希望者にコットンの種を送って、オンラインで繋がって成長過程を共有しようという『プランタリム』というプロジェクトをはじめた。

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2014年
ものづくりの魅力を共有してコミュニケーションを生もうとする場所「セコリ荘」。コミュニティには飲食要素が必要だったので、営業許可をとって建物の半分で「おでん屋」を開いた。おでんは一度仕込んでもらえばキッチンに下がらなくてよいので提供しやすいし、みんなおでんが好きだから。月曜から金曜の間に産地に行って、金曜から日曜の夜に開店というリズムが生まれた。学生さんからデザイン関係者、製造業の方、びっくりするくらい有名な方まで毎週末たくさんの人が集まってくれた。まさに描いたコミュニティスペースができていった。学生さんの進路相談、デザイナーさんが生地を見に来てくれるケースが増えていった。おでんじゃない建物の半分では週刊誌のように産地のテキスタイルを並べたり商品を販売するキュレーションスペース。次に繋がる出逢いや出来事もセコリ荘から次々に生まれていった。例えば業界の先輩とOEMを行う会社を作ったり、キャンピングカーを借りて日本各地を嫁さんとまわった。この時『セコリ百景』というウェブメディアをリリースしたり。身に余る仕事のご依頼も増えていった。「セコリ荘」という自分たちの媒体以外でも、美術館やファッションビルなど、外部スペースでのイベントも積極的に行なっていた。


2015年
キャンピングカーでの産地ラウンドでは、産地の方と時間を気にせず交流を深められる。例えば、3日滞在予定の富士吉田を7日に延長したり、ご紹介で次々にいろんな工場に行けたり。パワーアップしたような状態で東京に戻って、セコリ荘に再び暖簾をかけた。平日は産地、週末は月島というリズムの復活。大きく変わったのは僕の意識で、交流するというところから、『種をまくだけでなく、もっと早く確実に産業に貢献していかないと』『産地の衰退がやばい』『後継者不足』と、たくさんのリアルな声を聞いて、意識が変わっていった。メディア的な立ち位置だったところから、事業戦略・展開を考えるようになった。具体的に産業に貢献したいという緊張感。並行して準備してきた「セコリ荘」の金沢店である「セコリ荘 金沢」を10月にオープン。実験的要素も多かったけど、たくさんの協力があり、新しい地で新しいコミュニケーションが生まれまくった。


2016年
「セコリ荘の運営」「デザイナーさんと工場さんのマッチング」「複数の媒体での産地紹介・工場紹介」「展示会やイベントでの情報発信」「OEM事業」

ここまで行ってきた上記の事業内容に加えて、『繊維産業やテキスタイルのことをしっかり学んで工場と直接取り組みをする想いのある人を増やしていきたい。そしてそういった方々が集まって濃いコミュニティを作ろう』というビジョンから、ものづくりのことを学んでネットワークを作るような学びの場構想が生まれた。毎週セコリ荘に進路相談にくる学生さんが多く、素材のことを勉強したいという声が集まっていたのも大きかった。これが「産地の学校」になる。1年くらいかけて産地の方、デザイナー、OEM関係者などたくさんの方々にお話を聞かせていただいた。もちろん八王子のみやしんさんにも。みやしんさんは2013年に文化学園の「文化・ファッションテキスタイル研究所」という教育と研究の場所になったので、『教育事業連携を組むことで研究所も利用してもらえるし、講義もできるよ』と言ってくださって、そこからお世話になることに。

「産地の学校」と同時に、売り上げにも貢献したいという思いから、テキスタイルの輸出業や海外向けのOEMにも力を入れはじめ、徐々に見えてきたのが「TEXTILE JAPAN」という構想。既存ルート以外で、海外に日本のテキスタイルの魅力を届ける施策。メディアと問屋を合体したような事業をしたいと考えた。既存のルートでは海外の有名どころにはセールスに行ってるけど、行き届いてないブランド(まだまだアップカミングなデザイナー)だったり、既存のルートでうまく噛み合ってないケースが多数ある。例えばインスタで出会って日本のテキスタイルをスマホ越しで見てもらって、カジュアルにやりとりをして...という接点づくりなど。先に結論を書くと、テキスタイルの輸出業は各国にぼちぼちやらせてもらってきているけど、まだまだ点の仕事で「TEXTILE JAPAN」としての事業になっていない。事業になりきらない辛さがある。


2017年
「産地の学校」の開校日が決まり、いよいよ「セコリ荘」がひとつの役割・機能を果たしたなぁというタイミングで「糸編」という名の会社に法人化した。転換期。素材から服までの範囲で僕らなりのキュレーション(編集)をしていこうという思いから糸編という会社にした。おでん屋さんもこの時から開けなくなった。きちんと説明はしていないので「セコリ荘」を急に閉めた感があったかもしれない。2017年5月、繊維産業・テキスタイルについてを体系的に学ぶ場「産地の学校」の開校を迎えられた。開講日にミナの皆川さんがサプライズ的にお祝いに来てくれて嬉しかった。開講日はみやしんの宮本さんに講義をしていただいた。「産地の学校」についての詳しくはこちらのブログを。節目となったこのタイミングで、「ユウブックス」という出版社さんから『FASHION∞TEXTILE』を出版させてもらった。高いけどたくさんの方に買ってもらった。もしまだ買ってない方は、是非Amazonから買ってください。産地の皆さんに講義をしてもらったり、産地ツアーや工場見学でお世話になるような機会が増えていく。産地に熱意ある人を連れて行く、やる気の火を増幅させる、産地に関わる関係者を増やす、といったところに意識が向いていたと思う。


2018年
「産地の学校」はベースの東京校に加えて、各産地での産地ツアーやイベントを開催していきながら、浜松での「遠州校」、福岡での「ひろかわ校」、旭化成さんとの「ベンベルグラボ」と展開していった。産地ツアーはビジネスマッチングの意図と産地と交流する人を増やしていきたいというところから、各地の行政や自治体さんと連動して。産地校は地元の雇用に繋がったり、純粋にその産地の持っている魅力を外からの視点でアピールしたいという思いから。関わるきっかけづくり。大阪や尾州産地(愛知-岐阜)、北関東でも展開予定だけど、マンパワー不足でスピード感は出せていない。自社事業も外部の事業も色々と関わらせてもらってきたけど、やっぱり「産地の学校」の話題が多い2017年と2018年。この年に新しくはじめたことは、WWDでの連載や、繊維企業限定の求人イベント、青山スパイラルでの連続講義など。企業のユニフォームづくりのお話も年中いただくような年だった。

補足 :スピードがどんどん早くなる世の中で、「学ぶこと、研究すること、実験すること」の必要性をひしひしと感じていった。事業もものづくりも人としても。「産地の学校」は学びの場だけど、産地の方と一緒に素材開発したり議論の場に発展したりと、展望も広がる。


2019年
大きな変化はない継続の年。これまで携わらせていただいてきたことの継続。担当させてもらっている学校の講師業、連載や執筆業、産地の活性事業、産地ツアー、テキスタイル業務、OEMの業務などなど継続。さまざまな毎年の恒例行事が生まれていった感もある。社内外で働いてくれるパートナー、スタッフも増えて支えられ、僕から手の離れる仕事も出てきた。「産地の学校」も6期に入って、200人ほどの方々が受講してくれていた。となると、集まれる場所が欲しくなっていった。産地の学校の自習室、コワーキングスペースになる物件を探していた。気の向くままに集まって切磋琢磨できる場所。申し込みまでしたけど、タッチの差で埋まってしまった物件もあった。

補足 : 創業時期からデザイナーさんと職人さんが顔を合わせてものづくりに取り組む風景が好きで、そこに掛け算の関係が生まれ、可能性が広がると思っている。これだけ多種多様な工場がある日本でデザイン活動をするなら現場にいって拡張するべきだと思っている。とはいえ、間にコンバーターさんが入った方がよくなるケースもある。ケースバイケース。作る人も着る人も、関係者がハッピーになるものづくりが正解。とにかく僕は、0から1が生まれる瞬間を間近で見れることが幸せだ。だから間に入る形でなく、僕はあくまでキュレーターとして動く。OEMの仕事は「どうしても縫製までして欲しい」という時に製品で納品している。なのでアパレル商品というより、企業のユニフォームやホテルの制服、ノベルティ関係が多い。


2020年
冒頭でも書いたけど、2020年は事業の転換になるような予感をひしひしと感じていた。会社的にも新しく求人要項を整えていた。「TEXTILE JAPAN」を本稼働しよう、「産地の学校」もオンラインプログラムの準備をしていた。連携してる各産地とも産地に必要なアクションとして、大掛かりな施策など準備・会議を重ねていた。社内でも新しい事業がふつふつと。そこからの2月、3月、4月、5月。ビフォーコロナとアフターコロナでは本当にいろんな前提がひっくり返った。多くの方にとって、準備してきたものとか白紙になったと思う。でも変わらないのは、社会に求められること、必要なこと、未来に価値のあることをしていかないとならない。

3月以降、ウィズコロナでのテキスタイルの展示会の形として「半無人テキスタイル」の展示会を開催した。産地の皆さんにはZOOMをインストールしてもらって、遠隔で商談をしてもらった。「フィジカルな動きがなくウェブ上、バーチャルでテキスタイルをリサーチできるか」というのは僕の大きなテーマになっている。さらに、ウィズコロナでの産地との接点として、「ウェブ工場見学」を行なっている。これもZOOMでLIVEで工場を案内してもらったり、産地の方にスマホで動画を撮っていただき、僕らの方で編集させてもらい産地の学校のYouTubeで公開したり。全国各地の方々が協力していただいて動画が作れています。まだチャンネル登録していない方は、登録お願いします。毎週末にLIVE配信もしているので、チャットから参加して欲しいです。

そして来週からは社会がリスタートしようとしてる。読めない未来に対してこれまで用意してきたことより、新しく生まれる課題や可能性に向き合っていきたいと思う。小さな組織としての役割もそこにある。自分すら想像もしなかった新しい動きが求められ、実行していくのだと思う。半信半疑から確かめながらの確信になっていくのだと思う。

...ここまで読んでいただき、お気付きの方も多いと思いますが
自己紹介方から遠く離れて、長々と...年表のさかのぼりになってしまいました。。笑  すみません。自己紹介というより意思表明?

後日、改善しようと思いますが、今日はここまで書きました。
(2020.5.25 書き途中)


お時間が豊富にある方は、こちちらの動画も是非ご覧ください。
「しゃかいか!」というメディアが公開取材を企画してくれました。事業開始からさかのぼってくれています。


2.現在の事業内容

・繊維産業 / ファッションに関する執筆や出版
・繊維業界の情報発信に絡むコンテンツ制作
・デザインと素材のマッチング (ブランド視点でテキスタイルのリサーチやコーディネートもあれば、素材目線で合いそうな方にご紹介したり)
・繊維産地での工場ツアーやイベントなどの企画運営
・展示会やイベントの企画運営(自社会場から外部会場でも)
・繊維産地の活性事業 / 施策
・「産地の学校」の運営
・専門学校 / 大学での講師業
・素材/商品開発への参加/コーディネート
・OEM事業 / テキスタイルの輸出業

(歴の長い順)


3.最近考えていること

コロナの前と後では前提が全然違うと書いたけど、事業もそうだし求人もそう。準備していた「こんな方に来て欲しいです」が大きく変わった。弊社でもこれからどんどん新たなアクションを行っていく上で、新しいメンバーが必要。まだまだ要項を言語化できていないけど、こういったブログやSNSや動画を観た後に、「われこそは」と思ってくれた方がいたら、是非連絡していただきたいです。2020年から2021年はさまざまなことが流動的なので感覚的な部分をクイックに共有できて、なんとなく"次"を言語化しなくても共有できる少数精鋭のチームづくりが急務。小さなチームが複数。小さな事業が複数。それが連鎖して集合して、温度のある未来を作っていく気がしている。うちの会社に限らずだけど、料理人という役割で求人したとしても畑を耕すかもしれないし、YouTubeをはじめるかもしれない。その時にモチベーションがどこにあるかってとても重要。働き方、生き方、色々とアップデートしていっている。

(2020.5.25 書き途中)

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