見出し画像

でも僕たちはまだ子供

 千駄木に引っ越した。
 6月という、何かを始めるにはあまりに遅く、かと云って終わらせるには少しばかり早急な、そんな季節だった。
 こういう日は、大抵いつだって雨だ。
「あ、柳さん、そのダンボール濡らさないでくださいよ」
「ああ!?無茶だろ!」
 叫びながら、それでも柳さんはなるだけダンボールが濡れないよう、前屈みになり玄関へ小走りで向かってくれる。
 僕も柳さんを見習い、トラックの上に積み上げたダンボールを選び、玄関に運ぶと軒下で柳さんが座り込んでいた。
「なんだよあのダンボール……重すぎるだろ……」
「ちょっとぉ、サボんないでくださいよ。早く終わらせないと。午後から雨、もっと強くなるんですから」
「お前、なんでそんな偉そうなの……」
 部屋紹介して、引っ越しの手伝いまでしてやって、俺、いい奴だよな……?うん、いい奴……。俺はいい奴……とブツブツ呟きながら、それでも、柳さんは雨に濡れるのを厭わずトラックへ走ってくれる。
 なんだかんだいい人なのだ。
 僕はそんな柳さんを見て、……うん、あとは任せてよさそうだ、と思った。
 もう僕が運べそうなダンボールや家具は全部運んだ。残っているのはさっき柳さんが運んだような、実家から持ってきた蔵書が詰まった特別に重たいダンボール箱だけなのだ。
 柳さんは色々なところに余分な、というか、必要な肉すらないんじゃないかってくらい不健康に痩せていて腕なんか病人かよってくらい骨張っているが、しかし、学生時代はボクシングをやっていたとかなんとかだからまあ大丈夫だろう。
 僕は靴を脱ぎ、これから僕の生活拠点になる建物のなかへ、おそるおそる足を踏み入れた。
 小さな声でおじゃましまーす、と呟く。
 誰もいないのか、しん、と空気が張りつめていた。
 外からは雨の音と、柳さんの怒鳴り声と。それとはあまりにも対照的な世界。
 それでも、微かに嗅ぐわう人の生活の匂い。他人の家だ、という確かな感触に自然と身体が強張る。
 ペタペタと音を立てながら、素足で木造の床を踏み鳴らしていく。外見はボロい、が、意外と綺麗に掃除してある。足の裏にほこりがへばりつく、あのいやな感じがしなかった。
 ここに住んでいるのは、僕含めて五人だけだと、あらかじめ聞かされている。誰も必要以上に他の住人に干渉はしないので、シェアハウスではあるがそこまでのストレスはない、と。
 まあ、柳さんからの情報なので、単純に柳さんだけが他のメンバーから除け者にされている可能性もあるけど。
 どっちでもいいや。
 廊下をまっすぐ抜けると、突き当たりに階段があった。一階は居間やトイレなどの共同スペース、二階はそれぞれの部屋が割り振られていると聞いた。僕の部屋は……確か、一番奥の角部屋だ。
 まっすぐ階段をのぼり終えると、他人の匂いがほのかに強くなる。しかし相変わらず、怖いくらいに静かだ。
 でも、誰かがいる気配はする。
 ゆっくりと、足音を立てないよう慎重に、一番奥にあるはずの自分の部屋を目指す。
 道中、ダン!ダン!と何かを強く打ち付ける音がして、僕は思わず声をあげそうになる。
 な、なんか凶暴なやつがいる……!
 こ、こええぇ。
 ざああああああああと雨の音。廊下は窓もなく薄暗い。進めば、僕の目指す僕の部屋はきちんとある。鍵がかかってたらどうしよう、と思ったが、ドアノブをひねると僕の部屋の扉はあっさりと開いた。
 何もない四畳半の部屋が広がっていた。
 長いこと使われていなかったのか、ここだけ異様に埃臭い。少し足を踏み込んだけで咳が止まらなくなる。こりゃたまらんと思い、窓をあけ顔を出すとちょうど下で柳さんがせっせとダンボールを運んでいた。
「あー!お前、何サボってんだよ。午後から雨もっと強くなるんだろ」
「柳さん、この部屋、埃っぽいよ。あとで掃除お願いします」
「てめぇでやれよ!」
「や、僕、喘息なんで」
 大げさにゴホゴホと咳き込んでみせる。
「おい、それを先に云え。部屋は俺が掃除するから。お前は居間にでもいろ」
「ありがとー」
 なんて単純なんだ……と思うがそれは柳さんの持つ魅力でもあるので僕は何も云わないし考えない。ありがたいなあ、とだけ思う。
 で、窓を閉めようとして、ふと視線を横に向けると目があう。
 そこにはびっくりするくらいの美青年がいた。びっくりするくらいの美青年が、僕と同じように窓から身を出して、そして僕を見ていた。
「ど、どうも……」
 思わず、声が上擦ってしまうくらいの美青年だった。
 その美青年が云う。
「……誰?」
 誰だろう?
 
「いちごちゃんだろ。藝大生の。たしかお前とタメだよ」
 柳さんが云う。柳さんは餃子を、僕は酢豚を食べている。ここは近所の定食屋で、白ご飯はあるけどお酒はない。
「い、いちご……?なんですか、その素っ頓狂な名前は。ペンネームかなんかですか」
「いや、本名らしいよ」
「うへぇ〜、変わった親もいるもんですね」
 驚きながら、柳さんの皿から餃子を一つ奪う。
「あ……っ!……まあ、でも、あの子の場合、名前に負けず劣らずの可愛いナリしてるところがすごい」
「うわ、おっさん、それ、キモいですよ……」
「お前、本当、なんでそんな失礼なの……」
「さぁ、東京生まれだからじゃないですか?」
 僕は鷺ノ宮に生まれてそこには小さな川が流れていた。柳さんは高校までを大阪の岸和田で過ごし、卒業後、大学進学を理由に上京した。多くの同級生が岸和田に残り続けるなか、柳さんは一人だけそこから抜け出すことを選択した。
 それから十二年が経って、柳さんは相変わらず東京にいて、フリーターをしている。すっかり関西弁も抜けて、本人自身、地元のことは必要以上に喋ろうとしない。
 僕たちは一年前まで荻窪にある古本屋のバイト仲間だった。僕は高校卒業と同時にバイトは辞め、就職したが四ヶ月でその会社も辞めた。柳さんは僕が卒業する少し前にバイトを辞めた。
 現在、僕は無職で、柳さんは五年付き合っている彼女と結婚するために就活中だった。
 僕たちはバイトを辞めたあとも定期的に会って、どうしようもない近況を報告しあっていた。
「じゃあさ、一緒に暮らそうぜ」
 と誘われたのは深夜のファミレスでのことだった。
 なんか……実家にいると息苦しいっていうか、肩身狭くて……、と愚痴をこぼす僕に、柳さんが自分が住むシェアハウスに空きが一つあるという話をしてくれたのだ。
 で、まあ、僕自身、キッカケでもないと結局ずるずるこのまま実家で暮らしてしまいそうだったので、であればと、その提案に乗ることにしたのだ。
 それが五月の話。僕が二十回目の誕生日を迎えたあとのことだった。
「で、他には?」
「ふん?」
 僕が訊く。柳さんはせっせと残りの餃子を口につめこんでいた。
 いや、そんなに急がなくても、全部盗ったりしねぇよ。と思ったが、口いっぱいに餃子を詰め込んで飲み込むのに必死な柳さんがあまりにも滑稽だったので放っておくことにする。
「他には、どんな人が暮らしているんですか、あそこには」
「ほれね」
「全部飲み込んでから喋ってくださいよ、汚い」
 ただでさえ、長髪をだらしなく垂らして汚らしいのだ、柳さんは。
 長い時間をかけて餃子を飲み込み、あらためて柳さんが口を開く。
「……あと住んでるのは、自称小説家とあそこの管理人?みたいな人。たぶんどっちも働いてない」
「如何にもって感じですね。胡散臭げなメンツだ。仲良くできるかな」
「前にも云ったけど、別に無理して仲良くする必要はねぇよ?結局、一緒に住んでるだけの他人なんだから」
 僕は少し考えて、酢豚を食べて、飲み込んで、訊く。
「……いちごちゃんは?」
「あん?」
「いちごちゃんは」
「ああ、あの子は」
 やめとけ、と柳さんが云った。

 柳さんとは定食屋で別れ、ドラッグストアで歯ブラシや洗顔剤や化粧水を買ってから帰った。
 風呂は共同で、ここもきちんと綺麗にされていた。管理人とかいう人が掃除してるんだろうか。マメな人だな、と思った。マメな人は嫌いじゃなかった。しかし、マメなのであれば僕の部屋も定期的に掃除しておいてほしかった。
 僕の部屋は昼間、柳さんが掃除してくれたおかげで随分マシになった。埃っぽさが消えて、畳の匂いがした。畳の匂いを嗅ぐのは初めてだった。生まれてからずっとフローリングの部屋だった。ずっと東京だった。
 僕は東京以外の世界を知らない。
 ダンボールに囲まれ、布団に包まって眠る。

 夜が明けて、朝になった。
 規則正しい生活を心がける無職であるところの僕は六時には目を覚ました。ぼさぼさのだるだるの状態で、早朝の放尿をこなすためトイレへ向かう。ここではトイレに向かうだけで他人と遭遇する可能性をはらんでいるのが、心情としては非常に億劫だった。いずれこういうあれやこれにも慣れていくのだろうか?家族以外の人間と暮らすのは初めてで、まだ距離感を測るのがうざったいだけだと信じたい。
 隣の部屋で暮らすいちごちゃんはまだ寝ているのだろうか、と考える。今日は大学?休日?今日が何曜日なのかすらわからない。大学生がどういう生活を送っているのかもわからない。僕は大学に行っていない。大学には行っていないが、大学生が規則正しい生活を送っていないであろうことは想像がつく。
 放尿から帰ってくると、ラジオ体操をしてから、散歩がてらコンビニに行った。家の前をおじいちゃんがランニングしていた。中学生が自転車を漕いだ。空気が冷たい。雨はとっくにあがっている。どこかで誰かがくしゃみをして、サラリーマンが忙しなく駅へ吸い込まれていく。まだ少し肌寒い。Tシャツ一枚で外に出たことを後悔する。街の様子から、僕は今日が平日であるとあたりをつける。スマートフォンで確認すると今日は火曜日だった。なんにもないふりをしている火曜日は殴ると決めていた。
 コンビニで買ったメロンパンを食べながら、他の街にくらべてどこかまったりと揺れる景色を眺め、それに飽きると家に帰った。
 玄関をあがると、咆哮が聞こえた。
 こ、怖い……。
 昨日の何かを打ち付ける音といい、ここにはゴリラでも住んでるんじゃないか、と疑ってしまう。もしくは……馬?
 すっかり恐れ慄いていると背中を突かれ、振り向くといちごちゃんが立っていた。
「邪魔なんだけど」
「あ!ご、ごめん」
 云われて、慌てて端へ避ける。急なことに何もないところでつまづいてしまい、後頭部を壁に強く打ち付けた。
 これじゃ完全に挙動不審者だ。自分で自分が恥ずかしかった。
「い、今、帰り?」
 頭をおさえ、いちごちゃんが背負うリュックを頼りなく指差しながら、尋ねる。
「そうだけど」
「勉強?」
「んなわけないじゃん。仕事」
「へぇ、そっか……。あ、そうだ、まだ自己紹介してないよね。僕、昨日ここに越してきた……」
「聞いてる。いちごです、よろしく」
「よろしくお願いします……」
 っておいおい、僕、こんなコミュニケーション取れない子だったか?いかん、完全に緊張している。
「あ……のさ、あれ、咆哮……?なに?」
 何か喋らなくちゃと思い、とっさに頭に浮かんだのはさっきのゴリラ?馬?のことだった。
「ん?ああ、あれ。砂糖ノンシュガー先生でしょ。あの人、いつも部屋で暴れてるから」
「砂糖ノンシュガー?」
「自称小説家のおじさん」
「ああ、柳さんが云ってた……」
 この家には変な名前の人間しかいないのか。
「お、揃ってるね」
 また別の声がして、見ると居間から二十代後半くらいの男が顔を出していた。
「はじめまして。昨日は挨拶できなくてごめんね。ここの管理みたいなことをやってます。井戸です。よろしく」
「えっと、はあ、よろしくお願いします」
 拍子抜けするくらいさわやかな井戸さんに多少面食らいながら会釈を返すと、いちごちゃんが
「じゃあ、僕、寝るから」
 と云ってさっさと階段を上がっていってしまう。
 慌てて井戸さんが
「いちごちゃーん、朝ごはんはー?」
 と訊くと、
「いらないよ」
 と遠くから声が聞こえてきた。
 それから、咆哮。
「あれ……」
 天井を指差す。
「ああ。砂糖ノンシュガー先生でしょ。あの人、いつもああだから」
 あれがこの家の日常なのか、と僕は不安になる。夜眠れなくなったらどうしよう。
「柳くんはどうせまだ寝てるだろうし……。君はどうする?朝ごはん、作ったんだけど、食べる?」
 井戸さんが誘う。
 誘われると断れない僕は、メロンパンを食べたことをなかったことにして居間に向かう。

「いつもこんな、豪勢な朝ごはんを作ってるんですか?」
 僕は目の前に並ぶ皿の数々に完全に圧倒されていた。スクランブルエッグにウインナー、パンケーキやサラダに焼き魚、スープはなんと二種類も用意されているうえにデザートまであった。
「趣味なだけだよ」
「ほぇえ。すいません、あんまり食欲ないんで、これ全部は食べれそうに……」
「別にいいよ。置いとけばいつの間にかなくなってるんだから」
「はぁ……」
 オニオンスープを啜るとめちゃくちゃ美味しくてびびった。な、なんだこれ、本当に僕の知ってるたまねぎ?魔法?
 しかし、当の井戸さんはずっとコーヒーにしか手をつけていない。
「食べないんですか?」
「俺?俺はいいの。みんなが美味しそうに食べてくれるだけでおなかいっぱい」
「はぁ……」
 意味がわからなかった。
「そういえば昨日ごめんね。部屋、掃除しといてあげようと思ってたんだけど、急な用事が入っちゃって」
「いや、そんな。柳さんが掃除してくれましたし」
「彼、ああ見えて優しいところあるよね」
「それしか取り柄がないだけですよ」
「へぇ、君、身内には手厳しいんだ」
「いや、別に、そんな……」
 なんだかバツが悪い。というか、妙に気恥ずかしい。
「あ、そういえば、トイレとか全部、井戸さんが掃除してるんですか?」
 話を逸らしたくて、昨日気になったことを聞いてみる。
「うん。そうだよ。すごいでしょ。趣味なんだ」
「……のわりには、僕の部屋は何年も掃除されていないみたいでしたけど」
「だって人の住んでいない部屋を掃除したって、誰も喜んじゃくれないじゃない?人の喜ぶ顔を見るのが趣味だからさ」
 意味がわからなかった。
 ただ、この人とは仲良くできないことだけはなんとなくわかった。
 
 とはいえ人は慣れるもので、柳さんと深夜まで駄弁ったり隣の部屋の生活音に聞き耳を立てたり井戸さんのご飯を美味しく食べたり砂糖ノンシュガー先生の奇声を録音してインターネットにアップしているうちにこの家で起こる色々な物事や人に僕は慣れる。というより、シェアハウスに住んでいるはずなのに、案外人との交流が発生しないことに気づく。
 ここの住人は皆、それぞれ自分のやりたいことに必死で他人のことにまで気を使うような暇などないのだ。
 柳さんも、井戸さんも、砂糖ノンシュガー先生も、そして、いちごちゃんも。
 僕はどうだろう?
 あれ以降、いちごちゃんとはろくな交流がないままだった。
 だから井戸さんから、いちごちゃんに忘れ物を届けに行ってほしいと頼まれたとき、僕は即座にそれを承諾して上野の大学へ向かった。
 上野に足を運ぶのは久しぶりだった。昔は街のあちこちでパンダのぬいぐるみやポスターを見かけたものだが、数年前に動物園のパンダが檻から逃げ出し大虐殺を起こした事件があって、それ以来パンダを客寄せに利用する店がめっきり減ってしまった。今、上野を支配するのはパンダではなく、真っ赤なカニだった。
 なんとなく、駅前に立つカニの置物を写真に撮って、柳さんに送る。
 すぐ既読がついて、それから女児アニメのスタンプが返ってきた。その後「あたまいたい」とメッセージが送られてくる。昨日は手応えのあった会社から不採用通知がきたとかなんとかで遅くまで酒に付き合わされた。「もしかして、俺って、社会から必要とされていないのかも……」とまるで大学生みたいなことを云うのが可笑しくてずっと笑っていたら怒られた。だからというわけじゃないが、柳さんに返信はせず、既読だけつけて僕はスマホをしまった。
 で、まっすぐいちごちゃんの通う大学に行って、それで、僕は迷った。
 大学なんか所詮、高校の延長線くらいに考えていたけど、しかし、実際の大学はいくつもの建物が並び中庭みたいなのがあちこちに点在してたりして、なんだろ、僕のなかの学校の概念壊れる……。スケール感が高校とは全く違うのだ。
 なんじゃこりゃ。
 しかも頭の悪いことに、僕はいちごちゃんの連絡先を知らなかった。大学までやってきたところで、いちごちゃんに僕の存在を知らせることができないのだ。ここでも低学歴の差が出てしまった。まわりの大学生が全員、僕のことを馬鹿にしているような気がした。聞こえてくる雑音がすべて僕の悪口であるような気がして仕方なかった。柳さんに連絡してみようかとも思ったが、あの人は僕がいちごちゃんの話をするとなぜか不機嫌になるので、やめた。基本いい人なのだが、怒ったり機嫌を損ねるとその後ずっとねちねちと面倒くさいのだ。
 こんなことなら井戸さんにあらかじめいちごちゃんの連絡先を聞いておけばよかった。僕は井戸さんの連絡先すら知らなかった。こ、孤独……と思った。
 キャンバスを抱えた人やよくわからないオブジェを制作する人やTohjiや楽器を演奏する人やその様子をビデオに撮る人のなか、一人、ただ、ぼんやり、ポツンと立ち尽くしているのが僕だった。
 真剣に困った。
 困った僕は苦労して喫煙所を見つけて、そこで一服することにした。
 喫煙所にはいちごちゃんがいた。
「あ」
「どうも」
 いちごちゃんは一人で、タバコを吸っていた。あまり人気のない喫煙所なのか、いちごちゃんの他には誰もいなかった。
 遠くで吹奏楽が鳴っている。
 いちごちゃんの吐く煙は甘ったるい香りがした。
「や、やあ、偶然だね」
 あまりにも突然のことに、思わず意味がわからないことを口走ってしまう。
「なに、それ?ナンパ?」
「ごめん……間違えた。井戸さんから、これ、届けてくれって」
 気まずさをかき消すように、井戸さんから持たされた紙袋を渡す。
「ああ、これ!助かる。ちょっと困ってたから」
 いちごちゃんのリアクションが想像以上でちょっと嬉しい。
「なんなの、それ?」
 なんだかいつもよりいちごちゃんの反応が良い気がして、僕はついつい、そんなことを訊いてしまう。
「課題で描いた人物画。今日提出なんだ」
「へぇ」
「見る?」
「いいの?」
「そのために描いてるから」
 いちごちゃんが紙袋からそっとキャンバスを取り出す。
 そこに描かれているのは水に浮かんで、じっとこちらを見つめるスーツ姿の男だった。池?川?とにかくそれは自然界に存在するどこかで、本来人が浮かぶような場所ではないことがわかった。全体的に暗いトーン。夜か?メガネやネクタイや財布といった、男が身につけていたであろう小物が男の身体から離れた場所に浮かんでいる。男の表情は暗くてよくわからない。というより、意図的に表情を読めないようにしているように感じられる。ある種の拒絶がそこには宿っているように思えた。
「きれい、だね。ごめん、こんな単純な感想しか云えないけど……」
「いや、そんなことない。練りに練ってうまいこと感想を云おうとする人間は全員詐欺師だ。すぐ批評に結びつけようとするのは人間の業だよ。だから、君みたいな反応こそ嬉しい。ありがとう」
 男の絵が、いちごちゃんの手によって紙袋へしまわれる。
「このあと、暇?僕、これ提出したら今日もう用事ないし、お茶で奢るけど。お礼も兼ねて」
「え、ああ、うん。もちろん。付き合うよ」
「じゃあ、ちょっとここで待ってて。すぐ戻るから」
「あの、」
「なに?」
「その絵に描かれてるの、誰?」
「もう死んだ人」

 その晩、僕と柳さんは珍しくファミレスに居た。というより、毎晩毎晩うるさいと追い出されたのだ。なんと、あの砂糖ノンシュガー先生に。
 砂糖ノンシュガー先生はなぜかパンダのマスクをつけて部屋の前に立っていた。
 肩を震わせながら、「うるさい。邪魔。ゴミ。カス。ウンコ。ぼくはねぇ、今、宇宙と交信して行進して更新しているんですよぉぉおおお!?」と叫ぶ砂糖ノンシュガー先生が怖くて、僕たちは慌てて部屋を後にした。
「いやぁ、いつ見ても砂糖ノンシュガー先生は強烈だな」
 ドリンクバーでコーラと紅茶とクリームソーダと爽健美茶を混ぜあわせ混沌とした液体を飲みながら、柳さんがゲラゲラと笑った。
「あそこまでだとは思ってなかったですけどね」
「あれはまだマシなほうだぜ。もっとすごいと全裸で包丁持って追いかけてくるから。外まで」
「犯罪者じゃん……」
 ガチに犯罪者だった。前科がついていないか、他人事ながら心配になった。
「砂糖ノンシュガーってペンネームなんですかね」
「じゃね?本屋で見たことはないけど」
「作家ワナビーをこじらせて頭をおかしくさせてしまったか……」
「かなしい話だな……」
 かなしい話だった。
「で、柳さんはどうですか?今日も面接とか云ってませんでしたか」
「いやぁ、全然。二日酔いでまともに喋れんかった……」
「だ、だらしねぇ……」
 これでもう三十歳なのだから、もはや喜劇ではなく純粋に悲劇だ。
「そんなんじゃ彼女にも逃げられちゃいますよ」
「そこは大丈夫だよ。もうずっと俺たちラヴラヴラヴだから。日本語で云ったら愛だから」
「いや、わからないですよ。NTRモノ読んだことないんですか?こうしている今も……」
「……だな。不安になってきた。ちょっと電話してくる」
「声が風邪っぽかったら危険サインです」
「おう!ありがとう!」
 慌ててスマートフォンを掴んで外に出ていく柳さんを見送りながら、なんて単純な人間なんだ……と僕は思う。
 もはや人間国宝級だ。
 ただ、ああいう人ほど幸せになってほしいと思う。
 純粋に。
 単純に。
 切実に。
 柳さんには、ここにいる理由がある。彼女と結婚するため、地元と決別するため、戦うため。そのためにここにいる。
 僕にはそういうものがない。
 何一つない。
 僕はただ、東京に生まれたからって理由だけでここにいる。夢もないし、趣味も友達もない。なのに、東京に住んでいる。
 たまに、どうしようもなく罪悪感に駆られることがある。
 夢がなくてごめんなさい。
 東京にいて、ただ、ぼんやり過ごすだけで、ごめんなさい。
 何の才能もないのに東京に住んでいてごめんなさい。
 僕なんかよりずっと高尚で素晴らしい夢を、才能を、未来を、祈りを、切実さを持っている誰かが今日も東京じゃないどこかで東京を夢見て鬱憤とした日々を過ごしているのに、何もない僕が堂々とその席を占領してしまってごめんなさい。
 僕なんかよりずっと高尚で素晴らしい夢を、才能を、未来を、祈りを、切実さを掲げて東京へやって来て、必死にしがみついて、これがダメなら地元で死んだように生きるしかないからと、これでダメなら自分には何もなくなってしまうからと、ここでしか自分の存在価値を輝かせることができないからと、戦っている人がいるというのに、はじめから帰る場所がここにある僕なんかが平然と同じ空気を吸い続けてごめんなさい。
 どこかで毎秒生まれ、かき消されていく「東京行かせろ」という呪詛が、僕をゆっくりと追い詰めていく。
 切実さが欲しい。
 しかし、今、やっぱり僕のまわりの空気はどこか弛緩していて、誰かの切実さも所詮は他人事としか思えない。
 僕の居場所はここにはない。
 というか、どこにもない。
 戦う理由がある人々のなかで、何もない僕の存在価値などこれっぽちもありえないのだ。
 
 夢を見る。
 僕がいて、いちごちゃんがいる。
 いちごちゃんは名探偵で、僕は一仕事終えたいちごちゃんを迎えにいくのだ。
 もちろん、これは夢で、だから、いちごちゃんが名探偵というのも、僕がいちごちゃんを迎えに行くというのも、全部嘘だ。
 指定されたアパートの前で車を停めていると、いちごちゃんが後部座席に乗り込んでくる。
「お疲れ」
 バックミラー越しに、僕はいちごちゃんをねぎらう。
「うん。ありがとう」
 と云ういちごちゃんはしかし、実際のところ全く疲れているようには見えない。
「その様子だと、楽勝って感じだね」
「いや、そんなことはない。嫌な事件だったよ。あっけない謎のわりに、後味だけは悪いときた」
「どんな事件?」
 僕はいちごちゃんとこうして会話していられることが嬉しい。
「母親が父親を刺し殺したって事件」
「それだけ?」
「大筋はね。母親は父親を殺害したあと、息子のもとでずっと泣き喚いていて、アパートの住人が異変を察して警察を呼んだ。その時にはもう父親は絶命していたらしい」
「……謎らしい謎はなさそうだけど。一体、何のためにわざわざ現場まで?」
「もう一人を見つけるため」
「もう一人?」
「娘がいるんだ。四人家族なんだよ」
「?」
「警察官が部屋に踏み入れたとき、そこにいたのは血塗れの包丁を持って泣き喚く母親と、その横でゲームをする息子と、腹を滅多刺しにされて息絶えた父親だけだった。戸籍上は間違いなく娘もいるんだ。息子の姉にあたる子供がね。でも、いない。どこにもいない。母親は精神が錯乱してとてもコミュニケーションがとれるような状態じゃないし、息子も知らない、の一点張りだ。そこで僕が呼ばれた。まだ見ぬ四人目を探すためにね」
「見つかった?」
「見つかったよ。両親の部屋のクローゼットのなかに」
「へぇ、よかった。それでめでたしめでたしってわけだ」
「そうでもない。だって、そこにあったのは娘の肉片なんだから」
「へ?」
「ご丁寧にクーラーボックスで冷凍保存までされていた。状況的にみて、犯人は父親だろうね。変態的な遊びの成れの果て、と云ったところかな。もともと、ロリコン気質のある男ではあったらしい。独身中、海外に女児を買いに行ったりね」
「……」
 バックミラー越しに見るいちごちゃんはあくまで平然としている。
「食べてたんだよ、実の娘を、すこしずつ」
「……すごい話だね」
「どういう経緯でここまで事態がエスカレートしたのかはわからない。ただ、これが今回の事件の一番の要因であることは間違いないだろうね。母親の身体にいくつも傷跡があることから、父親が家でどういう振る舞いをしていたのかは想像がつく。小さな帝国の王様気取りってところかな」
「その……息子は?息子も暴力を?」
「いや、息子には直接的な暴力の跡はなかった。ただ、彼には記憶の混濁や欠如が見られる。きっと、色々なことを忘れてしまっているんだろうね。例えば、自分の誕生日だったり」
「誕生日?」
「先週だったんだ、彼の誕生日」

 僕はかわいそうな家族の話を聞きながら、しかし、内心ではいちごちゃんとたくさん話すことができて嬉しい、と思っていた。
 どうでもいいのだ。
 僕は死んでしまった人や頭がおかしくなってしまった人や暗い未来に取り残された人のことなんかどうでもよかった。
 いちごちゃんと、こうして話せること以上に価値のあるものなどない。
 本当に。
 まったく。
 これっぽっちも。
 あとはすべてゴミクズだ。
 だからかわいそうな家族の話は、僕にとっては本質的に今日の天気の話題と同価値なのだ。
 僕の運転する車が停止する。しかしここは千駄木の、あの、僕たちが暮らす家じゃない。千駄木ではなく中野の、知らないアパートの前に僕たちは到着する。
「じゃあ、ありがとう」
 と云って、いちごちゃんが車を降りる。外に出たいちごちゃんが、知らないアパートの、知らない部屋のチャイムを鳴らす。
 そこから顔を出したのは、いちごちゃんの絵に描かれていた、あのスーツ姿の男で。
「もう死んだ人」
 いちごちゃんの声がこだまする。
 何かがおかしい。
 何かがおかしいのだから、僕は今すぐにでも動き出さなくちゃいけないはずなのだ。
 僕は今すぐにでも車から飛び出して、いちごちゃんを追いかけなくちゃいけないのだ。しかし、車のドアはなぜか開かなくて、だから僕は焦るばかりで何もできない。
 何もできないまま、いちごちゃんが消えていくのをただ、呆然と眺めている。

 いちごちゃんが消える。
 
 目が覚めると僕は泣いている。心臓が痛かった。まだ外は真っ暗で、どこかで砂糖ノンシュガー先生が吠え、それで、また、しん、として、この静寂がいつまでも続くのであれば、遠くの誰かの寝息すら聞こえてきそうだった。
 僕は、そっと、布団から抜け出して、壁に耳をつける。
 僕の隣の部屋にはいちごちゃんが住んでいる。
 僕はいちごちゃんが確かにそこにいるという実感が欲しくて、そこでずっと耳をすます。暗い夜が明けるまで。明るい朝がやってくるまで。一人で。
 だけどいつまで待っても、聞こえてくるのは僕の心臓の音だけだった。

いとうくんのお洋服代になります。