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いつまでぼくらは子供

 母親が部屋に飛び込んできて「お父さん、刺しちゃった……」と泣き叫んだとき、ぼくはPUBGをやっていて、PUBGは楽しいので、だから、今、この瞬間の楽しい時間を邪魔してほしくないという気持ちになった。
 それにお母さんがお父さんを刺すなんて、そんなの母親がお父さんのスマホから知らない女の子(ぼくと同い年くらい?)の裸の写真を見つけてそれに逆上した父親がお母さんを思い切り殴りつけてそのせいでお母さんがおでこを6針縫うことになった瞬間からもう完全にわかりきっていたことだった。ちょっと想像力があれば、誰にだって簡単に予知できちゃうことなのだ。だからあまりにも予定調和なこれは、正直云って、ちょっとゲンナリした。結末がミエミエのつまんない漫画を読まされている気分だった。
 かいけつゾロリとコロコロコミックしか読んだことのない小四のぼくにもわかることが、なんで何十年も生きてきた両親には想像できなかったのだろう?父親も、母親も、誰もこの事態を想定できなかったのだろうか?本当に? 
「ごめんね、こんな家族でごめんね……。幸せにしてあげられなくてごめんね……」
 と母親はずっと泣いていて、泣いている自分に酔っているふうでもあったので放っておいたが、でもお母さん、ぼく今、結構幸せだぜ?好きなゲームを好きなだけやれる環境を与えられて。ていうか、元々あんたらに期待してたのなんてそれくらいだし。
 だから今すぐこの部屋から出て行って、自首するなりミステリ的なトリックを弄するなり、好きにしてほしかった。そうやって陳腐でくだらない役割に終始するのであれば、さっさとぼくの目の前からは消えてほしかった。
 ぼくは味方の亡骸を超えて敵を撃つ。
 シュババババババ。

 次の日ふつうに登校すると、まず担任に呼び出された。
「ご両親のこと、聞いたよ」
 どうやら、ぼくの母親がぼくの父親を刺し殺し逮捕された事件はすでにぼくの通う小学校の教師陣にも伝わっているようだった。
 ちなみに、ぼくの母親は結局あの後自首することもミステリ的なトリックを弄することもせず、ただ泣き続けた。そのうち異変を察したのであろう近所の誰かの通報でやってきた警察官によって、母親は連れていかれたのだった。
 警察官に連れていかれる間際、母親はぼくに向かって「強く生きてね」と云った。どこまでも当たり障りのない薄っぺらい言葉しか吐けない母親に対して、正直云ってぼくは完全に失望していたが、側で聞いていた警察官の一人はちょっと涙ぐんでいたりして、なんだろう……この世界には馬鹿しかいないのか?この先の人生、果たしてぼくは尊敬に足るだけの大人に出会うことができるのだろうか、とちょっと不安になる。
「つらかったね。……大丈夫?」
 あのときの警察官とおなじような表情で、女教師がねっとりとした口調で云う。
「……」
 ぼくは考える。ぼくはこの場でのぼくのキャラクターを選択しなくてはいけない。
 A.ショックを受けてうまく喋られない純粋なぼく。
 B.全部くだらないと吐き捨てて何も喋らないぼく。
 C.まだ何がなんだか理解できていない無垢なぼく。
 現実はBに近いが、しかしこのキャラクターを選ぶと後々めんどうなことになるのは目に見えている。無難なのはAだが、絵本が好きでぼくたち生徒のことも童話にでてくる可愛らしいキャラクターくらいにしか考えていない脳内お花畑かつフェミニストに傾倒しているフグのような顔をしたこの女教師に湿っぽい同情の相手をさせられるのもウザかった。
 だからぼくはとぼけた顔をして、黙って首を小さく傾げた。
「……そうよね。まだ、何がなんだか、わかってないわよね」
 と女教師は感極まったようにぼくをそっと抱きしめてきて、だからぼくはろくに乾燥機にもかけられていないであろう生乾きのシャツの臭いをしばらく我慢しなくちゃならなかった。
 くせぇ。
 最悪だ。

 幸いなことに、ぼくの家で起こったことはぼくのクラスにまでは伝わっていないらしく、担任に呼ばれて帰ってきたぼくをクラスメイトは口々にお前なにやったんだよ〜、と囃し立てるような調子で茶化すだけなのでちょっと安心する。
 これでクラスメイトまでぼくのことを遠巻きに腫れ物のような、だけど好奇心のこもった眼差しで見つめてきたりなんかしたらそれこそ地獄だ。あとは……クラスの異物となったぼくを排除しようとくだらないイジメに走ったり、逆に変に同情的な空気が流れてぼくのために何の役にも立たない千羽鶴を折ったりカラフルな色紙を書いたり?
 と、ぼくは想像して、いやでもクラスメイトがそういう陳腐でくだらない方向に突っ走っても、ぼくは案外簡単にみんなのことを許せちゃうな、というか、そういう流れに無理に逆らおうとせずぼくもいじめられて本気で悲しんだり同情してもらって本当に嬉しくなったりするかもしれないな、と思う。
 なんというか、そうは云ってもぼくたちはやっぱりまだ子供で、なにが陳腐でくだらないことなのかなんてわからなくて当然なのだ。だから、ぼくはクラスメイトが陳腐でくだらないことをそうであると無自覚なまま行なっても、きっと簡単に受け入れてしまうのではないかと思う。変に意固地にならずぼくも一緒になって陳腐でくだらないことをやれるんじゃないかと思う。現にぼくだって、合唱コンクールにクラスで一致団結して優勝したときは素直に嬉しかったし、クラスメイトの一人が同じ塾の好きな女の子に告白してフラれたときは他の友達と一緒になってそいつのことを茶化しながらちゃんと慰めたりもしたのだ。
 きっと我慢がならないのは、大人までも揃って陳腐でくだらないままでいることなのだ。
 芸能人が不倫するたびに過激化する報道メディアに対して苦言を呈する大人や、本屋兼カフェで本が乱雑に扱われていると怒る大人や、紙の本には肉体的体験が宿ると云って電子書籍を軽蔑する大人や、差別や政治といった問題に真剣に取り組んで涙したり、全部をくだらないと馬鹿にしたり、全部をくだらないと馬鹿にする人を馬鹿にしたり……。そういうあまりにもありきたりでしょうもないことを大人が正しいこととして平然とやったりするたびにぼくは、あーあ、と思ってしまう。そういうくだらない大人が全員死滅しない限りぼくはぼくの未来にとても希望なんか見出せないぜ、という気分になってしまうのだ。
 あーあ。ほんとくだらねーぜ。

 送っていこうか、と云う担任の善意を丁重にお断りして、もう誰もいなくなってしまった家に帰ると、知らない人がいた。
「ごきげんよう。きみ、ここの家の子?」
 そいつはびっくりするくらいの美少年だった。17歳くらいの美少年が、リビングに座って呑気にお茶を飲んでいた。
「……誰ですか?」
 ぼくは警戒する。テレビ雑誌記者ユーチューバーインターネットコメディアン。とにかく人の不幸に首を突っ込みたがる人種は多い。
 今、きちんと自覚したが、ぼくは最早誰に悪意を持って狙われてもおかしくない状況にいるのだ。これからどんどん酷くなっていく可能性を常に孕んでいるのだ。
「怖い顔をしてるね」
 だと云うのに、ぼくの感情を無視して、目の前の美少年は涼しい表情でお茶をすする。
「……そりゃ、家に帰って、知らない人がいたら、誰だって」
「へぇ、結構普通の反応するんだね」
 なんだろう……。妙にイライラさせられる。というか、あえてぼくの感情を逆撫でしているような……?
「殺人事件があったって聞いたから寄ってみたものの……。もう全部解決された後みたいでガッカリだよ。僕の役割はここにはないわけだからね。密室も操りもメタもここにはないわけだからね」
「なんの話だよ」
「ミステリの話」
 意味がわからなかった。
 ただ、一向にカメラやボイスレコードを取り出す様子がないあたり、どうもこの美少年はテレビ雑誌記者ユーチューバーインターネットコメディアンの類ではないようだ。
 いや、そもそもこの男は今、この場にあるすべてに対して完全に興味を失っているように見えた。
「お兄さん、誰なの」
「いちごちゃん。名探偵」
「名探偵?」
「そう。正しさの王道を突き進むことができる唯一無二の存在」
 意味がわからなかった。
 ぼくとは世界観からして根本的に異なっているような、そんな違和感、居心地の悪さを感じる。
「名探偵が、なんの用だよ」
 と訊くが、しかし、名探偵の存在理由なんて一つしかない。かいけつゾロリとコロコロコミックしか読まないぼくでも、それくらいはわかる。
 真実を語るためだ。
 いちごちゃんが答える。
「用は終わったよ。ここには僕が取り組むべき謎なんてないということがわかった。僕が関わるだけの価値がないということを確認できた。ただ人が人を殺したって、それだけだ。そしてそれだけであれば、僕が思考する必要はない。それは僕の仕事じゃないんだ」
 いちごちゃんの言葉はやはりぼくの心を妙にざわざわとさせて、
「……でも、実はぼくがお父さんを殺した可能性だってあるんじゃない?ぼくがお父さんを殺して、それを庇うためにお母さんが逮捕された可能性だって」
 だから、ぼくは意地悪でそんなことを云う。まるで、謎がなければ人が人を殺すことにはなんの価値もないように扱われている気がして、なぜかそれが我慢ならなかった。
「驚いたな。随分残酷なことを云うんだね。でも、きみは殺してないよ」
 だがしかし、いちごちゃんはあっさりとぼくの言葉を否定する。
「なんで」
 尋ねるぼくに対して、いちごちゃんの答えは至ってシンプルなものだった。
「それは正しいことではないから」
 さて、そろそろ行くよ、といちごちゃんが立ち上がる。
「あ、そうそう。きみ、誕生日は?」
「……来週ですけど」
「ご両親の部屋のクローゼットの取手。まだ少し血液が残っていたから、拭いておいたほうがいい。それじゃあね」
「あの、」
「うん?」
「正しさってなに?」
「僕の語る言葉のすべて」

 クローゼットの取手には確かに微かに血痕が残っていて、ぼくはそれを拭くついでにクローゼットのなかを確認する。そこにはニンテンドーのswitchと「お誕生日おめでとう!」という両親の言葉が眠っている。
 
 で、ぼくはその晩、一人で布団に入って今日出会ったあの名探偵について考える。
 いちごちゃん。
 いちごちゃんは自分のことを唯一無二の存在だと語っていた。
 自慢げに。疑いなく。まっすぐに。
 しかし、あのいちごちゃんだって、別の角度から見れば没個性的で陳腐でしょうもないキャラクターなのではないか、とぼくは思うのだ。あの名探偵も所詮は色々なキャラクターの個性や属性みたいなものを寄せ集めて作り上げられたものでしかないのだ、と。
 そもそも、名探偵という属性を背負うということは、きっと、そういうことなのだ。名探偵と聞いて人々が連想するその延長線上に、いちごちゃんもやはり、存在しているのだ。
 つまり、
 どこまで云っても陳腐。
 何を云ってもくだらない。
 ただ、ぼくは陳腐でくだらない大人を許すことにする。というより、陳腐でもくだらなくもない人間なんてきっとこの世界のどこにも存在しないのだ、と思ったのだ。ぼくたちはもうどうしようもなくしょうもないのだ。誰であろうと、どれだけ抵抗したところで結局どこかに吸収されてしまうのだ。いちごちゃんのような、あれだけのキャラクター性を持ってしても、結局は名探偵という属性のなかに吸収されてしまうように。
 でもやっぱりぼくのなかにはまだどこにも吸収されたくないという気持ちもあって、だから、ぼくはぼく以外の人間については諦めるが、しかし、ぼく自身についてはまだ諦めないことにする。ぼくはまだ小学4年生で、だから自分自身について諦めてしまうにはきっとまだ早すぎる。
 それからいくつかの夜が明けて、そのたび朝になる。
 ぼくは留置所にいる母親に会いにいく。お母さんは憔悴した様子で、相変わらずごめん、とか、今までありがとう、とか、強く生きて、とか、そんな薄っぺらい言葉ばかり並べてぼくをうんざりさせるが、それでも、ぼくはお母さんの言葉のすべてをきちんと聞く。そしてぼくも、謝らないで、とか、こっちこそありがとう、とか、お母さんも身体に気をつけて、とか、そんな薄っぺらい言葉ばかり並べて自分自身をげんなりさせる。それでも、お母さんの心には確実に何かが届いているのをぼくは感じる。
 それで良いということにする。
 はたから見ればこれもやっぱり陳腐でくだらないものなのだろう。無自覚で想像力の欠如したアホ人間からは同情のおもちゃにされ、正しさを突き詰めた末に頭のおかしくなったゴミ人間からは嘲笑の対象にされてしまうのだろう。しかし、ぼくはこの陳腐でくだらない世界で、それでもこうして無様に踊りながら生きていくしかないのだ。

いとうくんのお洋服代になります。