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平成の夏と家出娘

蘇州の川辺は、ナンプラーじみた匂いが酷い。日差しは此処一番強く、日除けの傘が僅かな影を作ってもほんの暫しの休息に瞼が微睡む。

平成が終わるらしい。
平成に生まれ、平成に生きている私には、時代の境目がぼんやりし過ぎて上手く事態を呑み込めない。
変わるということ。世界が終わるわけでもあるまいし。
然し乍ら、それは一つの区切りとして機能していて、誰かにとっては一大事なんだろう。
それはわからないでも、ない。

ずっと何処かに行きたがって、というより逃げたがっていた時期があった。
小学生の頃だ。親の言うことに兎に角苛ついて、合わなくて、何かにつけては素直になれと言われてきた。言い方も悪かったのだ。腹立つ腹立つ。親の言うことは私の苛立ち所に見事ヒットして、不良にならないだけマシ、と当時の自分を振り返って思う。そんな勇気も持ち合わせてなかったのだけど。溜まりに溜めて自分の世界の狭さに嘆いていた。ぐるぐる、ぐるぐるとたまってゆく。上っ面だけなんも感じてないように見せては、内心包丁を研ぐが如く時期を伺っていた。
とうとう爆発して、私が初めて、自分の意思で親がいないところに行ったのは中国だった。
2013年の夏。大して話せない付け焼き刃の中国語でもって、進学したばかりの大学の短期留学として、である。因みに学部学科ではそのプログラムに参加するのは私が初めてであった。どんだけだ。

中国と聞いて、忌避する人は少なからずいる。治安とか食事面とか衛生面とか。
言葉と文化が違うのはそもそも国が違うのだから当たり前だ。それまでの経緯が、成り立ちが異なるのだから。
何でもよかった。何処かに行けるのなら。
何処かに行きさえすれば、それだけで満たされると思っていた。

今年は人生2度目の上海に行った。本当は天津に行きたかったのだけれど、日程が合わず断念。知っている記憶と、知らずにしてもらっていたが故に知らないコミュニケーションに関するあれこれを、全部自分でして、感じた。
切符やICカードの購入、専らは行き先の伝え方、食べ物の量の単位の違い、あんまり話せないから上手く伝えられない歯がゆさ。
一度だけ行ったことある場所には、確認作業のように過去と今の景色を上書きして。
知っている場所のはずなのに、何も知らなかった。
ただ行ったことに満足しただけ。一人で何か出来たのだと自惚れていただけだった。
知らなかったことを知ってゆく。
記憶をアップデートしてゆく。
また新たに、この景色に私を刻んでゆく。

あの時の私は、きっと家出をしたかった。ずっと何処かに行きたかったのに、行き方と財力がない故に出来なかったから。
拗れて燻って爆発して、とうとう国外にまで行った。小学生の頃、居場所のあまりの狭さに嘆いた私の、盛大な家出だ。
今年の夏はこんどこそ、本当に行った、という気になれた。
あの頃の私はまだ十代で、今の私はとっくに成人している。こころは長いこと家出願望を持ち続けているだけだった。
こころは漸く家出から帰って来て、ふぅやれやれと息をついている。
これを機に大人らしい心持ちでいられるだろうか。
いや、無理そうだ。
現に私は、今旅行と称した家出中だ。

#家出娘 #エッセイ #中国 #雑文

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