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【映画感想4】火口のふたり(2019年、荒井晴彦)

>あらすじ
同じ「東北」でありながら被災地ではない秋田県で、親戚でありかつての恋人でもある2人が久しぶりに出会ってセックスしまくる映画です。

>論点
①人のいない実家、②災害救助で活躍した自衛隊は日本全国のみならず海外も含めどこにでも派遣されうる、③亡者踊りの踊り手達は顔が見えず、「男か女かも分からない」ことなど、震災後の東北の担い手が不在であることが随所で強調されています。唯一、主人公である「けんちゃん」(柄本佑)だけが物語の中では男性の担い手たりうるポテンシャルを持っていますが(彼の男性性を強調するためか、セリフの語尾が現代の若い男性の使う言葉としては若干不自然です)、15年前に上京した彼の語る東北は他人事で、秋田弁も板についておらず(演技の問題ではなく劇中でそのように描かれています)、映画の最後までは彼はどこにも帰属していません。
最後に富士山が噴火して陸自に所属する直子の婚約者が東北を去る時、直子は彼との結婚に見ていた幻想から目覚めます。災害救助で活躍したからといって、陸自の彼はやはり東北の担い手ではあり得ないのです。一方のけんちゃんも快楽のためのセックスを辞め、担い手たることを決意します。結局、当事者たちが現実を直視して、一歩一歩泥臭くやるしかないということです。
このメッセージを受け取るのが東北の人々だけでいいとは、僕は思いません。物語の中で富士山が噴火した時、僕だったらどこに逃げようかと無意識に考えました。その僕を叱りつけるかのように、テレビのニュースキャスターの声で、富士山が噴火したら道路も鉄道も寸断され、空港も機能不全となってどこにも逃げ場は無くなることが告げられます。今の日本が直面するリスクは富士山の噴火に限りません。首都直下地震かもしれないし、巨大台風かもしれないし、核ミサイルかもしれないし、新型コロナウイルス感染症かもしれません。その時、一時的には逃げ出したとしても戻ってきて、「その後」を担う覚悟のある人は今の日本にいるのでしょうか。

一点、本筋と外れますが、東北の語りについて個人的な見解を述べます。物語の中でけんちゃんは「東北は不幸だ。古代から蝦夷として討伐され、戊辰戦争では悪者にされ、遅れた地域としての扱いを受けてきた」という趣旨のことを言います。これは一面において紛れもない真実で、直子が日露戦争を「よく知らない」と言うのも、日本の国民国家建設の過程で東北が置いてけぼりにされてきたことを象徴的に示しています。ただ東北には、三大祭りをはじめとする素晴らしい文化、特産品はもちろんのこと、三内丸山遺跡や中尊寺金色堂など「中央」よりもはるかに優れたものを造ったこともあるし、伊達政宗、上杉鷹山、宮沢賢治、太宰治など数々の優れた人材を輩出してきました。ナショナリズム的な理解に基づいて日本を均質な集合と捉える時、確かに東北は「異質」で、それゆえに「遅れている」と見られがちなのかもしれませんが、その異質性の中に独自の魅力があると思います。そういう意味で、東北についてこの映画とは別の語りがあってもいいと思います。

ところで、直子とけんちゃんは、どうしてワインとかポンジュースとか、果実系の飲み物ばっかり飲むんですかね?秋田や東北と何か関係があるのでしょうか?もし何らかの含意があって恣意的に登場しているのだとしたら、なぜ最初にけんちゃんが直子の実家に行った時だけはビールを飲むのでしょうか?それとも、何の含意もないのでしょうか?どなたか分かったら教えてください。

>その他
柄本佑は全体として落第で、特に前半の演技は絶望的です(後半は少しマシ)。瀧内公美はこの映画で初めて知りましたが、身体含め素晴らしいです。スーパーモデルのような完璧な身体ではありませんが、女性としての美しさを感じさせます。

>見るに値するか否か
露骨な性描写が苦手な人以外は見てもいいと思いますが、人によって評価の分かれる映画だと思うので、満足するかどうかは保証できません。特に、直子は主に客体として描かれているので、女性がこの映画を見たときなんと思うかは気になるところです(男性の身勝手な願望が凝縮された、醜悪な映画だと思う人もいるかもしれません)。僕自身は、ジェンダーについての捉え方は若干時代遅れだし、特に前半の性描写は過剰だと感じつつも、震災というテーマを正直に扱い、日本全体の問題として昇華させたことに価値があると思うので、見て良かったです。

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