蝶の羽

音が聴こえてきそうだった。しゃらしゃらと。
その人は、静かにハサミを置くと、折り畳まれた紙を指で摘んだ。そしてゆっくりとひらいていく。
糸ほどに繊細な、レースほどに綿密な、蝶の羽がふんわりとひらく。時が止まったようだった。彼女の掌に、蝶がとまっていた。

ーーー

書きたい書きたい、と言っている。時間が無い、と溜息ばかり零している。悔しいと呟く。自由だったあの頃を恨めしく振り返る。
夢を叶えた人を見やる。叶えていない自分を見つめる。その人を横から見たり、斜めから見たりする。意地悪く裏からも。
そして小さく呟くのだ。
「やっぱり」

彼らに有って私に無いものを数え始める。彼らの注ぎ込んだもの、削ぎ落としたものを見つめようとせず。それに飽きると次は、彼らに無くて私にまとわりつくものなどを探し始める。

私の体はぐるりと「枠組み」に囲まれている。まるで錆びついた鉄筋のように古臭い癖に、押しても蹴ってもびくともしない頑固なやつだ。まだ若かりし頃、こんなものは簡単に取っ払えると信じていた。自分には可能性があり、力があると信じていた。
今の私は、力尽きて色褪せて、呆然と天を仰いでいる。

日本人であり、東北出身であり、兄と弟に挟まれた長女であり、女であり、母であり、PTAでは役に付いており、会社員であり、妻であり、此処では湖嶋いてらであり、36歳であり。
それが現在の私の枠組みだ。

一人暮らしをし、護るものは自分くらいで、夢や恋や自由を貪っていたあの頃から、もう何本も増えた。大人になった私は、雁字搦めになっている。

ーーー

「制限が醍醐味なんです」
掌にとまった蝶を愛おしそうに見つめながら女性は呟いた。大体20センチ四方だろうか、彼女は人差し指で空中を切り取った。
「この四角の中でどれだけ表現できるかが楽しいんです」

だだっ広い世界にどこまでも色を塗りたくるのではなく、掌に収まるほどの小さな四角の中に、世界をどれだけ広げられるか。
それはいわば彼女の挑戦なのだった。

ーーー

枠組みは私を囲い、あの人を囲い、誰かを囲う。学校を囲い、地域を囲い、社会を囲う。
取っ払おうとする人もいる。壊そうとする人もいる。歪んで欠けたその隙間から、勢いよく飛び出していく人もいるだろう。

私は受け入れてみることにした。
この枠組みの中でどれだけ広がれるか試してみようと思った。
子供があって、家があって、仕事がある。
その中でも私は広がる。
私は広がっていく。

折りたたまれていた小さな紙が、光と息を吸い込みながらしゃらしゃらと大きく羽を広げたあの瞬間を忘れない。

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