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かけら

 業務に押し流されて、14時半頃社食へ行った。この時間、既にランチは終了している。ガランと広い空間に、ポツン、ポツン、と二人ほど座っていた。食券の機械はとっくに止められている。
 私は電子レンジに向かった。コンビニの袋から、サラダを出して棚に置く。次に弁当を出し、こちらは電子レンジに入れる。
 ブォーン、と弁当が回り出す。オレンジ色の灯りに照らされて、お遊戯会の主役のようにくるくると回るプラ容器を眺める。

「今日は遅かったんですね」
 咄嗟に右斜め後方を振り返った。誰もいなかったはずの調理場に、店長が立っていた。俯きながら、ちらと目だけをこちらに向けている。手元はなにか作業をしている。調味料の瓶に注ぎ足したりでもしているのだろうか。
 私は答えた。
「あ、はぁ。今日はちょっと忙しくて……」
 言い終わって、なるべく柔らかく微笑んだ。
「ランチ終わっちゃって……ごめんなさいね」
 店長はまた目を伏せて、私なんかよりずっと辛そうな顔をした。店長の眉間の皺をほぐそうと、私は柔らかさを取っ払い、大きく微笑んだ。
「大丈夫です、お弁当ありますので」
 電子レンジを指差す。ピーピーピーと電子音が鳴った。私は頭を下げ、弁当を取り出した。程よく温まっていた。店長は俯いたまま、なにかの作業を続けていた。
 私は端の席に着いた。弁当を開いた。水筒を出した。キャップを開けた。割箸を取り出した。割った。どのおかずから行こうかなと、品定めをした時だった。
 ぬっと大きな手が視界に入ってきた。右手には味噌汁のお椀、左手には大学芋の小鉢が挟まれていた。
「こんなもんしかないけど……。食べて」
 思わず声の主を見上げた。背の高い店長が、私を見下ろしていた。私はそこで初めて、状況を理解した。
「えっ、いや、申し訳ないです、こんなの」と慌てて立ち上がる。
「いや、いいの。これくらいしかなくて、ごめんね」
 店長は既に調理場へと去ろうと半身になっていた。背中だけになっていく彼に、「ありがとうございます……」と言った。
 カイワレの味噌汁だった。苦味が味噌と溶け合って夏の味をしていた。ふぅふぅと口をすぼめて息を吹きかける。猫舌なのもあるけれど、もしそうでなくてもそうしただろう、味噌汁は熱かった。ランチ終了からだいぶ経ったこの時間帯に、湯気が立つほど熱かった。 広く静かな食堂は、いつの間にか私だけになっていた。店長も奥に姿を消していた。
 大学芋はデザートにした。紫と黄色の反対色が、淡い飴色で一つにまとまっている。舌に絡み付く粘度と、塩気の入り混じる甘みを追う。業務も育児もタスクも家事も何もない。何もない空間に、私と大学芋だけが許されていた。

 二十二くらいの頃だろうか。池袋でバーテンダーをしていた。バーテンダーといっても、何ができたわけでもない。ただ、生演奏をするバーにいたくて飛び込んだ。
 ジャズやファンクやブルースや。夜な夜な地下で音を聴いた。仕事が終わるのは、まだ朝になりきれない余韻のような時間。仕事仲間と中華料理店やインドカレー店に行ったりした。深夜もやってる美容院に寄ったりした。仲良くなった美容師と待ち合せて沖縄料理店に行ったりした。夜が朝日を拒む時間帯は、妙に人と人の距離が近かった。

 家は池袋から三駅の所で、自転車でも行き来できた。毎晩、朝日から逃げるように漕いで帰った。たまに天気が悪い日は、自転車で通勤できなかった。電車で行き、帰りは歩く。始発には早い時間帯。三駅は歩けない距離ではないが、闇の中はやはり不安があった。

 ある時、バーから出たら通りの向こうからタクシーが走ってくるのが見えた。私は右手を上げた。体調があまり良くなかったのかも知れない。今日はタクシーで帰ろうと思った。
 乗って、手持ちが少ないことに気づいた。自宅の最寄り駅に向かってもらう。ただし上限金額付きで。そこからは歩こう。
 タクシーは走り出した。するすると滑るように見慣れた道を行く。メーターを見た。徐々に金額が上がっていく。あと数百円で提示した限度額に届く。その時、運転手が言った。
「やっぱ危ないよ。こんな暗い道に降ろせないよ」
私は一瞬言葉に詰まった。
「あ……でも、今日は手持ちがないので。大丈夫です、いつも通ってる道なので。ありがとうございます」
 運転手は、黙って速度を緩めた。
「うーん……いや、でも、やっぱり無理だよ」
 私は困ってしまった。払えないのだから降ろしてほしい。どう伝えようか、と考えあぐねていると、運転手が口を開いた。
「おじさんが払うから、駅まで乗ってってよ。そうして。危なくて降ろせないよ」「や、でも……」
「そうしてくれない? 頼むよ」
 タクシーは駅まで行って、明るいコンビニの前で停まった。
「すみません、本当に。これしかなくて……」
 私はいそいそと財布から金を取り出した。「いいのいいの。お家遠くない? 大丈夫?」
「すぐです。ありがとうございます」
「オッケー。はい、これ」
黒糖の飴だった。お釣りでも渡すかのように、掌に二粒、ぽんと載せた。
「結構美味しいんだよ、それ」
 私は一瞬、まじまじと彼の顔を見てしまった。小さな丸顔が、笑んでさらに丸くなっていた。
 徒歩七分の道のりを、黒糖飴を舌で撫でながら帰った。闇にぽっかりと沈んだ道に、私と飴玉だけが存在していた。

 優しさは、突如としてふと目の前に現れる。思いもかけない方角からふっと現れる。差し出される大学芋や飴玉のように。掛けられる微笑みや言葉のように。
 突然の出来事に私は目を丸くするけれど、彼らにとってはきっと何のことはない。
 彼らの日頃からの生き方が、培われてきた思考が、編み上げられた人生が、ぽろっと欠けてこぼれただけなのかもしれない。彼らの一部が、欠片のように剥がれて私に当たっただけなのかもしれない。
 本当に優しい人とは、本当の優しさとは、そういうものなのかもしれないな、と思いながら席を立った。
お椀と小鉢を返却口に置く。
「御馳走様でした」と誰もいない調理場に言うと、奥から「はーい」と声がした。


後ろの草のような植物
花言葉「永遠の少年」だなんて、
ぴったりしっくり似合い過ぎてる
まさに、少年ってこんなイメージ



#お花の定期便 (毎週木曜更新)とは、
湖嶋家に届くサブスクの花束を眺めながら、
取り留めようもない独り言を垂れ流すだけの
エッセイです〜

ぇえ…! 最後まで読んでくれたんですか! あれまぁ! ありがとうございます!