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せめぎ合い

今、小説を一本書いている。
高校を卒業したての青年の観る世界は、カーテンを締め切ったラブホの部屋と、日光さんざめく街とをつなぎ合わせて成り立っている。
書き上げたら、ぽぉんと公募に飛び込ませてみたいと思っている。noteに投稿するとしたら、その時は公募で落選した時だ。再度練り直して投稿するだろう。
公募とnote、その違いは、私にとっては読んでくれる人にある。公募の場合は審査に関わる方々のみ、noteの場合は、湖嶋いてらを知っている方も含まれる。前者は誰かが書いたものとしてその小説を扱い、後者は湖嶋いてらが書いたものと認識する。

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私は人間の奥の方を書きたい、書かなくてはと思っている人間なので、放っておいたらどこまでも闇をまさぐって行く。そうして出来た世界は歪んでいることが多いため、現実世界での知り合いには絶対に晒すことが出来ない。同僚が、ママが、妻が、こんなことを書くなんてと驚愕させてしまうと思うからだ。――いや、それだけではない。怖いのだ。そんなものを書く自分を、そんな思考回路の自分を否定されるのが怖い。
白い紙の前では私は自由で、ずぶずぶと埋もれ落ちていく感覚にペンが絡まっていくのが心地よいのに、出来上がったそれを公開することにこの上ない圧迫を感じている。

オンライン上の繋がりでもそこには確かに人間関係が成り立っている。きっと温かい文章を書くあの人には、穏やかな世界を書くあの人には、軽蔑されてしまうかなぁ、引かれたりするのかなぁと立ち止まってしまうのだ。

いつか、この躊躇や不安が無くなる日が来るのだろうか、と考える。
より深く潜ろうとすると世間がちらつく。そして、これより先に行ってはいけないという。
けれど人間誰しも闇を抱える歪な存在だ。常日頃からそう思っている。それなら臆することは何もない。書いていいんだ。書いていい。
せめぎ合いに背を向けて、ペンを握ったその先に、未来は広がっているんだろうか。
同僚や子供や夫にこの小説を読ませられる日が来るんだろうか。
心は果てしなくせめぎ合う。

答えの出ない闇の中でひとつだけ、明確な光が見えているのだとすればそれは、私は書かないと生きていかれない人間だということだ。
書くことを取り上げられたらたちまちにバランスを欠いて突破落ちて地面に叩きつけられて終わり。いや、もしかすると、それでもぐにゃりと曲がった歪な体で、細々と言葉を紡ごうとするのかもしれない。
受け入れられようが拒絶されようが、書くしかない、哀しいけれどそれしかない。
そう思って今日も、ベッドの上の男女を、彼らの闇を呑み込むさらなる闇を書いている。


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桜が咲きました。
家の中に桜って感動しますね。
3月生まれの次男と、いい季節に生まれたねぇと穏やかに眺めています。



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〜 #お花の定期便 (毎週木曜更新)とは、湖嶋家に届くサブスクの花束を眺めながら、取り留めようもない独り言を垂れ流すだけのエッセイです〜



ぇえ…! 最後まで読んでくれたんですか! あれまぁ! ありがとうございます!