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血迷った先

小説を、書いたことがない。
読んだことすら、さほどない。

私が書くものは、私の日常の端っこだったり、真ん中だったりする。
エッセイとよばれるものを、書いているつもりだ。

しかし、何度か、「これは小説ですか?」と聞かれたことがある。
いえ…、エッセイの、つもりです…、と答える。

エッセイが何なのか、小説が何なのか、あまり良く解っていないのだ。
学生の頃、国語の授業を受けていたくらいで、ちゃんと「書く」を学んだことがない。


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心の中をあぶり出すように書き出す、そこにテクニックはあまり関係ないと思っていた。

芸術や表現は、他人が評価しにくい所に位置しているのだし、「こう書きましょう」などという決まりのようなものはそもそも設定出来ないのではないかと思っていたのだ。

しかし、書いていくうちに、日々のことや思い出をただ書き連ねるエッセイにすら、限界を感じるようになった。
それは、どこまでもまとわりついてくる薄い膜のようだ。

息苦しくて、破り捨てたくなった。
教えてほしくなった。
私はやっと、本を読むようになった。


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クリスマスをテーマに、短編小説を書く。

12月の始まりと同時にひとつ窓が開き、そこからひとつの物語が流れ出る。
次の日にはまた別の物語がひとつこぼれ落ち、次の日にはまたひとつ弾け出る。

アドベントカレンダーだ。

その書きたいという意志を尊重する、という百瀬七海さんの言葉が、未経験の私を包む。

いいなぁ…、と思った時にはもう手を挙げていた。

何を血迷ったのだろう。
何の、題材も、ストーリーも、メッセージも持たない、手ぶらのままで。


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通勤電車で、昼休憩中、子供が寝てから、早めに起きて…。細切れの時間を捕まえて、文章を足したり切ったりこね繰回す。

10分書いたら電車は到着、5分書いたら子は夜泣きする。
それでも私は、時間の切れ端を捕まえて逃さない。

私の時間を注いで、私の感覚を編み込んで、出来あがってゆくのは、架空世界のようで現実世界のようでもある。


これを私はなんと呼ぼうか。

分類すれば小説、
しかしその延長線の先にはエッセイが存在しており、その境目はやはり曖昧に滲んでいるのである。




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パタン、パタン。次々と開いていく小窓の音に乗って、私の小窓も12月8日に開きます。



ぇえ…! 最後まで読んでくれたんですか! あれまぁ! ありがとうございます!