強く甘く #月刊撚り糸
スミレの花束を抱えて、春の風を受けている。陽の光は細かい粒となり、柔らかな風に揉まれて笑っている。私はゆっくりとかがみ込み、そのまま静かに目を伏せた。
蘇って来たのは、数日前、同僚とランチをしていた時のこと。なんの話の流れでそうなったか、彼女が双子の話をし始めた。亜弥は海外経験が多く、日頃から私の見たことも聞いたこともない話をちょくちょく会話に挟む。あ、そういえばマレーシアでさ、あ、そういえばカナダ行ったときにね、と、こういった風に。私はそれを聞くのが好きだった。勝手に視野が広がった気がするのだった。
双子の話に私が食いついたのは他でもない、私が双子だからである。
「茉由は双子だったよね」
「そう、姉ね」
「妹じゃなくて?」
亜弥がからかうように目を細めて私を見た。
「いや、姉だって!見えないと思うけど!」
「何も言ってないじゃん」
「どうせワガママだからとかマイペースだからとか言うんでしょ」
「いや、だから何も言ってないじゃん」
「ちゃんと先に生まれましたよー」
行儀悪くフォークを持ち上げて反抗してみせた。亜弥はやれやれと笑い、一息つくと口を開いた。
「それでね。海外の双子の話。後に生まれた方がお姉さん、って国もあるんだよ」
「え、なんで?先陣切って生まれるんだから最初に出てきた子がお姉ちゃんじゃん」
「まず他の子を先に行かせてから自分が出るのがお姉ちゃんって考えらしいよ」
「へぇ」
私はサラダに視線を落とすと、フォークを口元へと運んだ。
春の陽射しが充満するカフェの中には、カチャカチャと金属や陶器が擦れる音がしとやかに響いていた。亜弥がコンソメスープのカップを静かに置き、続ける。
「だからなのか、双子のお兄ちゃんお姉ちゃんは体が小さいケースが多いんだって」
と言った。
へぇ、とまた軽く相槌を打とうとしてなぜか出来なかった。口は確かに開いている。けれど、たった一言が喉に絡まり出て来なかった。カチャ、カチャカチャと、静かな雑音が流れている。私は自分の瞼が力なく緩み始めるのを感じた。目の焦点が、食べかけのハンバーグの上でゆっくりと解けていく。深い茶色の肉の上で、映像が流れ始める。双子の妹、小柄な茉衣が微笑みながらその細い腕を差し出している。頼りない指先が握っているのは、スミレの花かんむりだ。
小学生くらいまで、家の近くの広場でよく遊んでいた。走り回る私を穏やかな目で茉衣は見ていた。彼女が何時間もそこで何をしていたかというと、読書だ。たまにマフラーを編んでいたときもある。宿題をしていたときも。しかし、春になるといつも決まって広場の隅に突っ伏すように屈んでいた。春といえばスミレだった。その生い茂る紫色の中に埋もれながら花束を作ったり、花かんむりやネックレス、ブレスレットを編んだりしていた。
私や友人達が、広場の隅にしゃがんでいる茉衣を誘うことも何度かあった。その度に茉衣はスミレの花を置いて、曖昧な笑顔で私達の輪に入ってきた。鬼ごっこをしても缶蹴りをしても、茉衣はいつも負ける。負けて悔しがるわけでもなく、いつも曖昧にぼんやりと笑うのだった。
ある時、誰かが小声で言った。
「茉衣ちゃんてつまんない。もう誘うのやめよ?」
誰かが続けた。
「たしかにー。茉衣ちゃん入るといつも盛り下がるよね」
誰かが後ろの方から言った。
「茉衣ちゃんもういいよ。また花やっててて」
茉衣は困惑した表情でその場に立ち尽くした。そして救いを求めるかのように私の目を見上げた。今度は皆の視線が私に移った。私は、恥ずかしいと思った。皆の輪の中に溶け込めない妹が恥ずかしかった。小さく曖昧で暗いこの人間が恥ずかしかった。その人間とセットであることが、たまらなく恥ずかしかった。
「茉衣、行きな」
硬質な私の声に彼女の瞳は一瞬大きく開いたがすぐに萎んだ。小さな頭がぎこちなく反転し遠ざかっていった。
夕方、夕焼け小焼けが流れ始めると、家へ帰ろうと皆自転車にまたがった。公園を出る際、出入り口横のスミレの付近で自転車を止める。
「私ネックレス」
「私も」
「ブレスレットもらっていい?」
丁寧に草の上に並べられていたスミレのアクセサリーがひとつ、またひとつと消えていく。あっ、うん、と茉衣が遅れて頷いた。
紫色をところかしこに身につけて友人達は去っていった。茉衣は立ち上がり、編みかけのスミレを急いで輪っかにし始めた。
「ごめんね、せっかく誘ってくれたのに。私うまいこと出来なくって」
綺麗に切りそろえられた茉衣の前髪が光沢を放つ。その影に隠れて目は見えない。しかし、何度か鼻をすする音がして、きっと今、茉衣の目の際は真っ赤だろうと想像した。
伏し目がちに笑って茉衣は白く細い腕を差し出した。私の目の前に紫の花かんむりが咲いた。
それから数々の茉衣が浮かんでは消えていった。
ご飯のおかずを欲しがる私に、いいよいいよと分けてくれたこと。茉衣は小さいんだから食べなきゃだめだよと母が言っても、もうお腹いっぱいで食べられないのと小さく笑っていた。
そして、テレビは私の観たいものばかり片っ端から観ていたこと。チャンネル争いなど起こるはずがなかった。私がこれといえば、茉衣はいつだって笑顔で観よう観ようと頷いた。
思春期、「物分かりよく優しい茉衣」は私の中で徐々に薄れ、「優柔不断で曖昧な茉衣」へと切り替わっていった。より正直に言うなら「ダサい妹」という認識だった。
高校ニ年生の頃、茉衣の薄茶の瞳にいつも映り込んでいる男子生徒の姿に気づいた。背が高く、陸上部。佐伯君は学年の中でもモテる男子だった。茉衣の癖に高望みしすぎていて滑稽だった。ダサい妹の叶わぬ片思いを横目に傍観しては嘲笑っていた。
しかし雪のちらつく12月。お腹すいたー、茉衣まだ帰ってこないの、と二階の窓から道路を見下ろした時、家の前の街灯の灯りにふたつ影が浮かんでいることに気づいた。背格好ですぐに佐伯君だと分かった。そして、口元に左手を添えて俯き加減に笑うあの姿かたちに激しく苛ついた。
二週間後、私の腕は佐伯君の腕に絡みついていた。学校帰り、毎日街灯の下でキスをした。影の重なる瞬間を今、茉衣が見ているかと思うとくつくつと胸の内が沸き立つのだった。
春の風に頬が冷えていた。静かに涙の筋を拭い、目を開けた。
私はスミレの花束をそっと墓石の前に寝かせた。
知っていた。茉衣の欲しいものなら何でも知っていた。
スミレのアクセサリーは、自分で身につけてみたかったこと。
バラエティ番組で馬鹿笑いするのではなく、恋愛ドラマで切なくなってみたかったこと。
あの街灯の下は自分の居場所だったこと。
知っていて摘んだ。咲く前に摘んだ。
一緒に生まれた相手には、絶対に優っていたかった。茉衣に先を越されるなど、上を行かれるなどあってはいけなかった。笑ってほしくなかった。彼女の顔が歪むのを見たかった。
しかし茉衣の淡い笑顔は何よりも強固で、彼女はそれを一切崩すことなく貫いた。最期まで必死に、柔らかく。
「お姉ちゃん…」
真っ直ぐにひたむきだった茉衣の前で、たくさんのスミレが揺れている。一瞬、春風が巻き上がり、姉が甘く強く香り立った。
七屋糸さんの、#月刊撚り糸 に参加しています。今月のテーマは『お先にどうぞ』。
糸さんのお題はいつもセンス抜群で本当に考えさせられます。私は糸さんの感覚が好きなのだと思います。
私事ですが、今後少し小説から離れると思います。それでも#月刊撚り糸 は毎月拝読したいです。糸さん、ありがとうございました。