缶蹴り #月刊撚り糸
「え」
野木祐也は即座に振り返った。蹴り上げられたそれは、二、三度石ころだらけの地面を力なく打って、青空に甲高く鳴いた。地面の歪な円の中心で確かに先程まで祐也が右足で踏んでいたコーヒーの空き缶が、忽然とその姿を消している。
「くっふふっ、ゆうやってば全然気づいてないんだもん」
祐也は目の前に視線を戻した。鶴田真美の長い睫毛が、白い瞼に押し潰されている。
「ふっ、おっかしい」
瞼の際にうっすらと滲んだ涙を人差し指の背で拭いながら、しかしやはり堪えきれない様子で小刻みに震えている。
「てめぇ…!つーか誰だよ蹴ったの」
祐也は再度、円の中心へ目をやった。
所々塗装の剥げた水色のフェンスに囲まれたこの広い空き地は、祐也達の小学校からほど近く、毎日のように誰かが遊んでいる。とはいえ、現在は六年生の中でも態度が大きく喧嘩っ早い祐也が数人の下僕達を連れて陣取っているのだった。
膝丈程もある青々とした雑草は、中心に行くに連れて短く薄くなり、真ん中はとうとう乾いた土だけになっている。野球をしたり縄跳びをしたりする子供達によって、とうに息の根を止められてしまったようだ。それは、元気な小学生代々が長年かけて成し遂げた功績であるはずなのに、不名誉にも「ハゲ」と呼ばれていた。
「あの、なんだっけ。隣のクラスの。ちょっとぽっちゃりした」
こちらへ向かってくる祐也の背後での一部始終を目撃していた真美が言う。
「はぁ?隣のクラスなんか仲間に入れてねーじゃん。なに勝手に蹴ってんの」
祐也は熱の籠る溜息を一気に吐き出すと、脇の木を横蹴りし怒鳴った。
「うっざ!もうやめだ!お前ら出てこい。もうやめやめ!」
スカートのお尻の部分を払いながら笑いを堪えている真美を、祐也はもう一度睨みつけた。
ぞろぞろと三、四人、小学生が木陰や物置の脇から出てきた。どれも当初の缶蹴りメンバーだった。祐也は怒鳴る。
「出てこいよデブ!」
どっちに行った、あっちか、こっちか、と騒ぎ立てる祐也に押し流されるように男子達があちこちへ散らばっていった。ギラついた眼をして獲物を追う祐也の背中ほど無防備なものはない、と真美は思う。
「ゆうやったら。そんなんだからねぇ、後ろからすぐ持ってかれんのよ」
ハゲに立ち、彼女は祐也の背に向けて爽やかに笑った。
ーーー
漂う夜明けの空気の中、祐也の瞼が開いた。まだまだ薄暗い時分だ。
祐也は片足だけ、再度夢の中に入れてみる。体半分はあの夏の日の中に、そしてもう半分はこの部屋の中に。時空に跨って漂っていると、あの空き缶の甲高い音が響き始める。真美のあの笑顔が繰り返される。じりじりと執拗に注ぐ直射日光と、脳みそにびっしりと貼り付く蟬の叫びと、そういう暑っ苦しいものを全て流し去ってしまうかのような爽やかな真美の笑顔。きっと彼女の胸の中には冷たい沢が流れているのだ、と祐也は思う。自分の血の気の多さと、それをことごとく洗い流す真美。この構造を祐也は結構気に入っていた。今も、気に入っている。静かに顔を傾け、隣で小さな寝息を立てている白い瞼と長い睫毛のその人を見つめる。
ーーー
二人は大学生になっていた。
高校では一度離れてしまったーー中学時代荒れていた祐也の内申点の低さゆえであるーーが、高校ニ年生の夏休みに真美に偶然再会した時、祐也は彼方遠くへ消え失せたと思っていた気持ちが、再び息を吹き返すのを感じた。この胸の中に長年種火を抱えていたのだと祐也はこの時初めて気づいた。持ち前の血の気が、火に炙られてぐるぐると巡り出す。それからの祐也は凄かった。薪代わりの意地を焚べ続け、火を大きく大きく盛らせて、とうとう真美と同じ大学に合格した。と同時に熱量たっぷりの告白をした。上京し、真美のアパートから徒歩4分程のところにアパートを借りたが、現在はほぼ毎日真美のアパートに居座っている。ひんやりと清々しい彼女の沢が、祐也には必要だった。
「ふっ、なに」
「え、起きてた?」
「すごい見られてる、ふふ」
真美の長い睫毛が上下した。そして、
「朝から無理だよ?」
と小さく笑った。
祐也は急につまらなそうな声で尋ねる。
「今日も十時から?」
「そう」
「またかよ。じゃあ罰として」
「なんで罰?ちょっ、やだぁ」
大学生になって、彼女はアルバイトを始めたのだ。彼女の家は仕送りが少なく、少しでも生活費の足しにしたいと、ケーキ屋で土日だけ始めた。学業優先の真美らしかったが、祐也は面白くなかった。恋人がせっかくの土日をすべて、自分以外に費やすのだから。
しかし、迎えついでに訪れた彼女のバイト先で、制服姿でレジを打つ彼女をガラス越しに目にした瞬間、その思いが、ばちん!と弾け、砕け落ちるのを感じた。夕闇に沈んだ自分が見つめるは、煌々と眩い店内の彼女だった。いつの間に一段も二段も先に登ってしまった彼女だった。
帰り道、真美と他愛も無い会話を紡ぎながら、祐也は友人達から聞いたアルバイト情報を思い起こしていた。
ーーー
大学二年になっていた。
アルバイトと課題と試験と真美。それらが祐也の日常を占めていた。しかしその比重は、アルバイトが6、課題が1、試験が1、真美が2で成り立っていた。
自分のほぼ全てを真美に割いていた自分はとても青臭かった、と祐也は振り返る。あの頃と変わらない真美の笑顔や穏やかな態度を見るに、この比率は間違いでは無いようだ。アルバイトを始めて良かった。今や自分はバイト学生達のリーダー的な存在であり、時給も若干ではあるが高くなっている。この間は真美に指輪をプレゼントした。小粒の真っ白なパールが彼女の肌に似合っていた。
あんなに散らかっていた自分自身のパーツが、真美の存在によってつなぎ合わされ、細部にまで血液が穏やかに巡り、やっと今、人間になれたような気すらしていた。
ーーー
「おはようございます!」
いつも通り真っ直ぐに声をかけ顔を上げると、心なしか、チーフの目が雲で覆われていた。祐也は一瞬立ち止まりそうになったが、唇が自然と動いていた。
「今日は米の搬入っすね。すぐ裏まわります」
いつもなら「さっすが気が利くねぇ」だの「ちょっと待て、まず聞けよ。昨日の飲み屋のねぇちゃんがなぁ、」だのと繋がるはずなのだが、その糊しろの部分には何もくっついて来なかった。そのままの形で宙に浮いたままの言葉を、若干の苛立ちをもって自己回収する。
「じゃ、失礼します」
米の搬入には人が要る。
その時間帯だけは、このスーパーで働くベテラン社員やガタイの良いアルバイト達が呼び集められるのだが、祐也一人のまま、搬入業者の森田さんが到着してしまった。
「お疲れーっす。あれ、野木君だけすか」
「今来るはずなんですけど…呼んで来ます。お待たせしてすいません」
倉庫を探すが、チーフは居ない。積み上げられたダンボールの脇も確認しながら通路を進む。事務所を覗き込むと、店長と話し込んでいるチーフを見つけた。
「失礼しまーす。チーフ、森田さん来ました」
振り返るチーフの目は先程より濁りを増していた。その色は店長の目にも乗り移っていた。
「野木。ちょっと来い」
店長が低く言う。
重たい空気が充満する事務所へ足を踏み入れる。その空気に包まれた途端に、脳があらゆる可能性を弾き出す。俺は何かやってしまったのだろうか。失敗したか。迷惑をかけたか。ーーいや、何もしていない。自分自身に問いてみても何一つ、間違ったことはしていない。祐也はここでやっと息が吸えた気がした。
「何ですか」
「いや、これなぁ」
店長が差し出したのは、淡いピンク色した掌サイズの用紙だった。祐也にはそれが何か直ぐに分かった。花のイラストの横には、“お客様の声”とある。真っ黒く強い筆圧の文章は、「野木」という二文字で始まっていた。
その五行ほどの文章の上を視線が滑り出す。しかし、脳の動きを目の動きが追い越して、「野木」と「万引き」の二箇所しか拾えなかった。いや、その二箇所のみ、脳の表面に焼印でもされたかのようだった。
「え、してません!万引きなんて一度も」
「でもここ。何度も見たと書いてある」
「いや、そんなこと、」
「店の裏だって見えるんだぞ。搬入口は開けっ放しだし、通りに面してるんだからな」
「いや、でも僕は、」
「最近棚卸しの帳簿と在庫が合わないし、品出し前の物も無くなってる。しかもな、それ全部、お前の担当のだ」
「店内にこのアンケートは貼り出さない。けどやったかどうかは一番自分が分かっているだろ。ちゃんと正直に」
「だからやってねえっつってんだろ!」
店長のネクタイに掴みかかるその腕をチーフが掴む。祐也の足元に花柄の淡いピンクが舞い散った。
「お疲れーっす」
痺れを切らして様子を見に来たのだろう、搬入業者の森田さんの声が事務所内に響いた。咄嗟に振り返る祐也の目に、硬直した森田さんの丸い目が映った。その目には、色が変わるほどに強く握り締めた拳と、血走った目が映っていた。
ーーー
レシートに黒で刻まれた数字を見て愕然とした。残高がもう殆ど無い。祐也はATMの機械に濃い溜息を吐きかけた。
とはいえ、学生のアルバイトだからもともとそんなに貯金できていた訳ではない。数ヶ月前、真美に指輪を買ってやった時も、あれで結構思い切ったのだった。二度目は、まるで黒い渦巻きが見える程に濃い溜息を吐いた。
真美ーー。
真美すらいつの間にか居なくなっていた。
バイトを増やしたのだ、大学の図書館でテスト勉強するのだなどと言って、どうにも捕まらない。けれど追いかけ回すのも迷惑がられそうで連絡を断っている。いや、本当のところ、自分は心底面倒臭くなってしまったのかもしれない、と祐也は思う。最近はずっと、自分のアパートでひとり過ごしている。
笑い声ばかりを弾き出すテレビ画面が放つ光は、虚ろな祐也の眼球の上をただ滑っていく。ローテーブルの上に、チューハイの空き缶が敷き詰められていく。
バイトも金も真美も消えていって最後、この酒まで切れたら俺は一体どうなるんだろうと祐也は思う。まるで声に出してしまったかと自身で錯覚するほどにはっきりと思う。その明確な自分の声を飲み込んで腹の底まで沈めようと、またチューハイを喉に流し込んだ。
ーーー
次の日も、祐也は友達に代返を頼んで講義に出なかった。酒が尽きてしまい、おもむろに財布を掴み玄関へと向かう。サンダルをつっかけて外へ出る。もう夕方の風が吹いていた。
アパートの階段を降りると、久しく日光を浴びていない眼球に夕日が染みて思わず瞼を閉じた。細かく瞬きを繰り返しながら徐々に視界を開いていくと、そこに見覚えのある後ろ姿が映った。男と一緒だった。長身、細身。
祐也は寝間着同然の格好であることも、前日から付きっぱなしの寝癖も気にせずに駆け寄る。あと少しで追いつくかというところで、女の横顔がぱっと華やいだ。軽く男の肩を叩いた左手の小指に、小さなパールが光った。
「真美!」
腕を掴んでそれを男の肩から剥がすと、二人とも驚いて祐也の方へ振り返った。
「祐也?」
と真美が言うと同時に、
「野木さん」
と男も発した。
「あ、青果の」
男は、スーパーの青果に配属された新人社員だと聞いていたが、業務上、そしてシフト上、顔を合わせることがあまり無く、たまにばたりと会っても軽い会釈程度だった。
「下川です。お久しぶりです」
「あぁ」
「お元気でしたか」
「まぁ」
向こうが自分の名前を知っていたことが衝撃だった。
「やあだぁ下川君!なんで敬語!タメでしょ?ねぇ祐也凄いんだよ!下川君だよ、覚えてない?ほら、小学校の時、隣のクラスだった」
カーーン、カン。カンカランカラン。
頭蓋骨に鳴り響く甲高い音にくらりとする。気づくと夕焼け空は真っ青な空になっている。赤い夕日は白い直射日光になっている。下川と真美が立っているのはアスファルトではなく、あの空き地のハゲの上だ。その足元をぐるりと歪な円が囲っている。いつの間に脳みそにびっしりと貼り付いていた蟬が一斉に叫び出す。
「すんごい偶然だよね!こんなことって!」真美が下川に笑いかける。明るいその表情に、あの夏の日の爽やかな笑顔が重なった。祐也の耳の奥で、まだ幼かった真美が笑っている。
「ゆうやったら。そんなんだからねぇ、後ろからすぐ……」
蝉の叫び声になぎ倒されて大事なところが聞こえない。いつの間にか倍増していた蝉の群れが、今にも内側から頭蓋骨を押し破って出て来そうだ。祐也は思わず両耳を力ずくで押さえる。
「野木さん?大丈夫ですか?」
下川の声が無遠慮に耳の奥へと入り込んでくる。心配しているようで実に乾いたその声は、地面に幾度も打たれる空き缶の甲高い泣き声と、大量の蝉の叫びに加わり騒音と化していく。それは発光と点滅を繰り返しながら増幅し、渦巻く巨大なエネルギーで祐也を丸ごと呑み込んでいくのだった。
こちらの企画に参加しております。
七屋糸さんの #月刊撚り糸 。
1月のテーマは『お元気ですか』でした。
心温まるストーリーを考えていた筈がこんなことに。黒い『お元気ですか』になってしまいました。
来月もまた参加したいです。糸さん、いつもありがとうございます。
ぇえ…! 最後まで読んでくれたんですか! あれまぁ! ありがとうございます!