うつろい

17歳の老犬が、一段ずつ、階段を登っている。酷く浮腫んだ脚をなんとか持ち上げながら。鳴きすぎてかすれた声で、なお鳴きながら。白濁に濡れた瞳で虚ろにその先を見つめながら。上の方は霞んでもう見えないこの階段は、きっと天に繋がっているのだろう。

その後ろ姿を、私達は見守ることしか出来ない。転げ落ちるんじゃないかと、熱をもったあの脚はどれほど痛むのだろうと、胸の中で容量オーバーになった思いが、溜め息となって溢れ出す。

体が朽ちて、動けなくなり、寝たきりになった。口元にご飯や水を持っていき、排泄で汚れた腹の下を拭く。
痴呆で止めどなく吠える夜。鉛のような脚に苛立ち、両手を激しくばたつかせ、力の限り吠える。

「…安定剤、いただけますか」
かかりつけ医に電話したのは、疲弊した体で出勤し、電卓とエクセルとメール画面を行き来して、もうこれ以上、壮絶な夜を越えられそうにないと判断した昼休憩だった。

“安楽死”
想像していなかった訳では決してないその語が鼓膜を叩いたら、思いの外こたえた。

「安楽死は……、それはちょっと…」

急に重力がのしかかって来たかのように、視線が下降していく。チャコールグレイのパンプスに乾いた落ち葉が絡んだ。
秋だ。

夏はキャンプに行ったのに。
ゆっくりだけど砂利の上を歩いて川に少し入ったのに。
ひと月半でこんなにも進んでしまったなんて。もう何段も登ってしまったなんて。もうずっと手の届かない位置まで昇ってしまったなんて。

「…ちょっとそれは……出来ません…」
 
私達に出来ることは、その冷たく固い階段に、せめてもの絨毯をひいてあげることくらいしかない。
私は安定剤を選んだ。

ーーー

スクロールしてもしても、出てくるのは「火葬」だった。
ペット霊園、火葬、お骨。
調べてみて、火葬が主流なのだと初めて知った。田舎の実家ではあらゆる動物を飼っていたが、それらは全て庭の土に眠った。

海の向こう、夫が生まれ育った土地には、土葬の習慣があり、「そういうものだから」という乱暴な言葉では片付けられないほど、確固たる信念のもとにその方法が継承されている。

「でも火葬しか出てこないよ。やっぱり火葬するしかないんじゃない…」
スマホ画面を夫に向けると、彼の視線は一瞬画面にくっつき、その後、はらりと床に落ちた。
「うん…。でもやっぱり、この子は焼けない」

夫の返事に、細長い風船から空気が勢いよく抜けるように溜め息が漏れ出して、スマホを持ち上げていた手首が力なく折れた。火葬の土地に生まれ育った私と、土葬の土地に生まれ育った夫の間に憚るこの距離感。

土の下に眠る。残された家族は毎日のようにその場所へ会いに行く。土の上に乗っかった枯れ葉を取り除き、代わりに色とりどりの花びらを振りまく。語りかけ、佇む。それが弔いで、愛なのだった。帰省するたびに義母にそうする彼を見ていたからこそ、
“やっぱり、焼けない”
その言葉が重くのしかかる。覆い被さって、退いてくれない。

私自身は、といえば、体は借り物な気がしている。
魂が、この体を着込んで、人生を体験している。
安定剤を飲んで横たわる彼女を眺める。きっと彼女は階段の途中で、この体を脱ぎ捨てるだろう。浮腫んだ脚を、毛の抜けた背中を、白濁の目を脱ぎ捨てて、最後の数段は軽々と跳ねながら登り切るのだろう。

それはきっと私も同じだ。誰もが、きっと同じだ。
朽ちた体を脱ぎ捨てて、逝く。
それを地上に置いて、天に昇る。
きっと私は、置き去りにした体より、自由になれた魂のほうがずっと大事だ。体は、土葬でも火葬でも散骨でも、特に構わない。

愛情をもって弔えばその形など問題ではないのでは、と思いつつ、その形こそが夫にとっては愛情なのかも知れない、とも考える。

「火葬は悪いことじゃないんだよ?」
私の声に、夫は床に転がしていた視線を持ち上げた。
「火葬はさ、その人の煙が天に昇っていくでしょう…だから…」
私の説明を、うん、うん、と噛みしめるように聞いた後、夫はやがて動かなくなった。その姿は、数学かなにかの無理難題をなんとか解こうとする、努力のようなものを秘めていた。じっと佇む夫を、じっと見つめる。

「でも君は」
渦巻いていた思いが一気に弾けたかのように勢いよく立ち上がった彼は、次の瞬間私を抱き締めていた。

「君は燃えちゃ駄目だよ…」

一瞬通信が途切れたかのようなこの脳は、それでも彼の背中に腕を回すように指示したようだった。次に感じたのは彼の体温だった。

土葬でも火葬でも散骨でも構わない。
脱ぎ捨てた体が土になろうと煙になろうと海になろうと構わない。
それでもきっと私は土葬を選ぶんだろう、と思った。
それも、「彼の隣」と場所指定で。
母親が亡くなった時にしか見せなかった涙がこぼれるのを見たからだ。

「頼むから…」
そう震える声が、私の奥底まで転がり落ちていったからだ。

ーーー

壁一面に薬が詰め込まれた部屋の中心に、犬猫用の診察台が設置してある。うちの子も予防接種の際に登ってきた緑色のゴムシート。その上で、袋に入れられた安定剤が差し出され、受け取った。
何名か経験した獣医さんの中でも、あの子が懐いたこのかかりつけ医はご年配で、手術ももうやめてしまったそうだ。薬の処方のみ続けている。部屋の端にある流し台には、花瓶に挿したばかりの切り花。切り落とされた茎が青々と散らばっている。
彼女は、白髪の前髪すれすれに視線を滑らせ、宙に浮かぶ記憶をなぞった。

「それじゃあ、私も聞いてみますね。獣医の友人たちに」

夫の気持ち、いや、愛を汲んで、どうにかあの子が土に還れる方法を模索することにした。かかりつけ医も、力を貸してくださるそうだ。切り花が部屋の隅で瑞々しい。動物を愛し、花を愛す彼女に出会えて、あの子も幸せだったろう。
彼女の視線が宙から降りて、私の瞳にとまる。

「旦那さん、やさしいのねぇ」

慈悲深い垂れ目が緩やかに細くなった。

「あ、はぁ」
私は少し笑って答える。

「はい、そうだと思います」

頭を何度か下げ、扉に手をかける。体を斜めにしてまた頭を下げながら扉を開けると、もう外は薄暗かった。
車のドアを閉め、少しのあいだ俯いた。

秋だ。
秋の夕暮れ。
ひとつ季節は進み、階段は一段上がり、ひとつの時代が終わる。
うつろいを受け容れようとする私に、秋はなんでこんなにやさしいのだろう。

助手席に座った安定剤の袋を見やるとあの子の名前に目が止まった。
はたちの私がつけた名前だった。

窓から流れ込む夕暮れを吸い込み、ハンドルに手をかけた。
だんだん濃くなる秋の中、車はゆっくりと滑り出す。



ぇえ…! 最後まで読んでくれたんですか! あれまぁ! ありがとうございます!