いてんの自作PC遍歴①1996年〜2001年
こんにちは。いてんです。
今回は私いてんの自作PC遍歴を順を追って紹介したいと思います。
私の旧知の間柄で「間違ってねぇ?」ってのがありましたらコメントかTwitterで教えて下さい。
自作PCとの出会い
初めてのマイパソコン
1983年製のいてんですが、小学6年生の時にマイパソコンを購入して貰いました。
世の中はWindows95が発売され「乗るしかねぇこのビッグウェーブに」的なノリで私立中学の合格祝いで父が買ってくれました。(後述)
それまで、小学校の3年4年と2年続けて担任だった佐山先生が自分のパソコンを持っていて小学生の時にやっていたマーチングバンドのスコアやフォーメーションを作っているのを見たり、2軒隣りの1コ上の「テッチャン」の家にパソコンがあったり(今思えば多分PC98で5インチFDDでイースとかやってた)、また新しい物好きな父親がだいぶ古いポケコンを持っていたりと、パソコンと言うもの自体に縁がなかった訳ではないものの、初めてのマイパソコンにかなり興奮していました。
ちなみに、そのパソコン購入の少し前に日立の一体型パソコンFLORAを家族の共用パソコンとして買っていて、もちろんWindows95搭載でプリインのゲームが何種類か入っててそれで遊んだりしてました。
父親が「パソコン買ったぞ」と言う報告を受けてから数日?経って配送されてきたマイパソコンですが、富士通のFM-Vだと言うことは持ち帰ったカタログから分かっていたつもりだったものの、実際に買ったパソコンは持ってきたカタログよりも古いモデルでした。
カタログに載っているパソコンは全てWindows95搭載、CPUはPentiumだったのですが、届いたパソコンはWindows3.1に486DX/4 100MHzで94年モデルか何かでした。家電量販店でかなり値引きしてくれたとは言え、今なら考えられないですよね笑。
(定価248000円を100000円で買ってきたと言っていた)
手に入れたマイパソコンは486だったためその後少しして流行ったDiabloが動かず、結局共用パソコンを使っていましたが、マイパソコンに入っていたゲームが面白くて結構やり込みました。ただ当時、パソコンを使ってやる事イコールゲームくらいでしたので、それ以外に何かをやっていた訳では無かったです。
自作PCが何かを知る
そして中学に入学し、何を血迷ったのか「物理部」のドアを開けてしまい、そのまま6年間(中高一貫なので)物理部に席を置いてしまいました。もしあの時に本当は見に行きたかった「ギター部」に人がいたら今こうやってノート書いてる事も無いでしょう笑。
部活については6歳年上でやはり中高と同じ学校にいた兄から「運動部とか多分辞めた方がいい」「吹奏楽は顧問がガ◯ャピンだから辞めた方がいい」等と今考えれば適当なことを吹き込まれていて、ましてやど田舎から仙台の街中にある学校に1時間以上かけて通い、学校の中は中1〜高3まで一緒なので1年次は相当ビビっていました。
都会の小学校でスポーツやっていた子や頭がよろしい子達と比較出来ないくらいの私でしたが、身体だけは大きく運動部に入りたかったのですが、家が遠くて帰りが遅くなる等の理由から親にも却下されました。
さて、私が中1で叩いた物理部のドアでしたが、そこにいたのは中学生は居なくて、高2の先輩達だけ、彼ら4人はただの仲良しグループで、高校卒業するまで何でもいいから適当に空いている部室を乗っ取りたかったという不純な理由で物理部をリブートさせたようですが(ちなみにさらにその5年くらい前まではれっきとしたまともな部活だった模様)、そこに右も左もわからない中1の私が入り込んだ形でした。
物理部、ましてや物理すら何なのか分からなかったのですが、部室にはPC-9801(型番は忘れた286で3.5インチ2HD搭載の)が置いてあり、使用目的等も全く不明でしたが、H先輩がN88-BASIC(Disk)の使い方を教えてくれたことでそこからプログラミングについて勉強をするようになりました。
本題に戻ると、この物理部のリブートに伴い、学校から出る部費の他に、パソコン購入用として特別勘定のお金が出るとの事で、記憶だと合わせて8万位で新しいパソコンを「組む」と言った話となり、13歳だったいてん少年が「自作パソコン」と言う単語や意味について知るきっかけとなりました。
当時のパソコンのスペック
CPU K5 100MHz
M/B AT規格 ASUS製 SiSチップ
メモリ 4MB
500MB HDD
Windows95
とおおまかにこんな感じだったかと思います。
時効って事にして欲しいのですが、OSのライセンスなんかは真っ黒ですね。
私が卒業まで使いましたがあれこれパーツ変えたりしたはずですね。
私がメインになっていた訳ではないため当然パーツについて口出したりした事もないのですが、当時限られた資金で何とかかんとか頑張って組んだような記憶があります。
今みたいにパーツ組み合わせれば簡単に組み立てられる時代でもなく、ましてやUSBも無かったので、光学ドライブなんかは個人のパーツを持ってきてバラして接続して使い終わったら持ち帰るみたいな感じでした。
当時家で486のマシンを使っていて、部室にはPC98と自作PCがあり相当パソコンにのめり込んでいました。N88 BASICについては部室でしか使えませんでしたが、プログラミングを覚えるためにWin3.1(正確にはMS-DOS6.2)でQBASICを使ったりしてました。これは保存機能が無かったので、プログラミングをしても結局捨てる事になるので、簡単なプログラミングの基礎をひたすら練習してたかと思います。
ちなみに当時H先輩はプログラミングに詳しく、勉強としてマイコンベーシックマガジンをおすすめしてくれました。マイコンベーシックマガジンがPC関連の購入図書となり、2000年頃まで毎月(?)購入してましたが、最後らへんは扱う言語が変わっていたためプログラミング以外のコーナーのために買ってました。
初めてのマイ自作パソコン
そこから1年くらい経ち、486は自室で使用していましたが、流石にスペック的な部分で厳しくなり、もっと上位のパソコンを使用したくなっていました。しかし、我が家は決して裕福ではないため、おいそれと「新しいパソコン買って」とは言えません。そこで家族に内緒でアルバイトを始めました。本当は中学生なのでアウトですが、それを偽り、プログラミングのデバッグの仕事をするようになったのですが、そのバイトを紹介してくれたのは当時まだ普及していないインターネットの掲示板でした。当時は掲示板が流行り始めていて、仲良くなった方に「お金ないのでボロPC使ってます」みたいな事を言ったところ、プログラミングのデバッグ作業のバイトしてみない?と軽く言われました。その頃はネット上ではハンドルネームを使うのが当たり前、氏名など個人情報を出すなど考えられない時代でしたが、協力してくれた方がいまして、お陰でちょこちょこ仕事振ってもらえて少しずつお金を稼ぐようになったのです。その方はその後も付き合いがあり2007年頃まで連絡してましたが急にパッタリ連絡が取れなくなり、その後亡くなったと風の噂で聞きました。
さて、パソコンを買うためにコツコツと1年以上お金を貯めたのですが、問題が出てきました。親に内緒にしてたので、新しいパソコンを置くなんて無理だ、と。今考えれば、同じFMV筐体の上位モデルを買えば良かった気もしますが、自作PCをしたかったのと、ちょうど良い空き箱があったので、それにインストールする事にしたのでした。今考えると初自作PCをケース買わずにそれ以外のもので覆うと言う考えが凄いですね笑
1年半ほど貯金をし、私も中3の冬になっていました。普通なら高校受験をしているのだろうと思いますが中高一貫のため別に勉学をするでもない冬休み。中学生が一人で大金持っていることが怪しまれないように(安いのもあるけど)、年始にツートップとドスパラを回ってパーツをある程度一式購入し、一時的に部室に置いて仮組して動作確認してから家に持ち帰りました。その時生まれて初めて30万円もの大金を持ち歩いていたり、それくらいの金額の買い物をしました。
モニター(15インチブラウン管、XGA)とキーボードとマウス(それぞれPS/2)はそのまま使用のため、購入したパーツはPentium2 266MHz/ギガバイトのマザー/3D rageのグラボ/16MBメモリ×2/4GBのHDD/300W電源とそんな感じだったかと思います。
さて、数日に分けて持ち帰り、パソコンラックの下段に置いてある段ボール箱に詰めて、親がいないタイミングで組んで、動作確認。ちゃんと動いた!けどうるさい!と言う事がありましたが、当時は何でも出来るPCだと思ってました。ちょうどDelphiを使っていたので、今までの486が使えないレベルで快適だったのをよく覚えています。ちなみにその後、親にバレて万引きしたのかと延々追求されました。
あとこの頃はDTMもやっていて、F先輩から借りパクしたSC88とかそんなことやっていました。その後はちゃんとPCケースを購入し箱に入れたものの1年経たずに調子が悪くなって知り合いに5万で売りました。PC買った金以上に稼いでくれたので良かったです笑
部室のニューPC
あっという間に高校2年になりました。2000年です。その頃はゲームと音楽ばっかりしていて、パソコンも486機しかなくバイトも特にせず、と言った頃です。
高校1年次に仲の良い友達が物理部に入部してきました。主に内申点のために部活入ったと言う感じです。部室で格ゲーと音ゲーばっかりやっていたのですが、人が増えた事で部費でパソコン欲しいよぉとお願いしていたら翌年15万円の予算が出ました。
端折って書くと、それでK6-2一式を組みました。モニターも17インチのCRTとかにしました。以前のK5と98もあります。部活の方向性を「ゲームを作る」と言う名目で、ゲーム機持ってきて「研究」をしてたのですね。結局部活としては1本も作りませんでしたが…
最初から数えるとそれで3台目の自作となります。
当時ソフトアイランド仙台店にほぼ毎日のように出入りしており、店長、社員さん、アルバイトさん達と仲良くなり、そのツテで部室のパソコン一式となりました。かなり値引きしてくれたのをよく覚えています。
このソフトアイランド仙台店ではその後大学生の時にバイトしたり閉店まで数年見続けました。(社員さんが閉店で解雇されるので3ヶ月程度の短期で使い捨てられる人が欲しかったらしい)2003〜4年の出来事です。
話を2000年に戻します。
当時流行っていたのはAge of Empiresで、部室のパソコンをネットワーク接続し、対戦などしていました。結局やってることはゲームなんですよね。
同年の年末にバイトで入ったお金でようやく自分のPCを購入しました。
マイ自作PC2代目(多分2001年)
自作PCと言っても、先述のソフトアイランドで処分に困っていたAopenのベアボーンを引き受け、それを当面使っていました。ベアボーンはMicroATXのi810搭載、HDD1台とODD5インチベイ1個のみ収容可能みたいな感じで、確か2万円くらいだったと思います。それにCeleronの800MHzとメモリ128MBとHDD40GBで一式5万円で買いました。かなり安い。486では動かなかったので98で使っていましたが、新しいPCはWindows2000が普通に動作。ただDTMのソフトがWin2000では動かないとかそう言うのはありました。
あの頃は寝ても覚めてもパソコン、音楽、ゲームと考える事がいっぱいあり、とにかく楽しかったです。楽しさを優先させすぎた結果、勉学は中の下か下の上くらいで、大学受験はまぁしないで推薦で系列の大学行けばいいか、位の軽い気持ちでいました。
ちょうどその頃親が会社を始めて、パソコンが欲しいけど金は安くしたいと言う話から、ソフトアイランドで何台かベアボーンを買いました。モニターも当時まだまだ高かった液晶モニターを自社ICOMブランド品を安売りして貰ったり、こちらとしてもだいぶお世話に。
また、住まいも地元から離れて、仙台の街中のマンション(当時はそんなに栄えていなかった)に引っ越してきました。(2002年2月)
いつ書くか分からない②に続く