第16話 ギトギトのポヨ

 透き通ったエメラルドの海の上に浮かぶこと五日後、それまで小さな島に浮かぶヤシの木ぐらいしか目につくものがなかった水平線の風景に、直線的な形のビルがぽこぽこと現れ出した。コロンビアのカルタヘナだ。いよいよ南米大陸にやってきたのである。
 夕暮れが迫る港にヨットを接岸し、海に突き出たコンクリートブロックへ向かって南米の第一歩を踏み出そうとしたら、突然ぐらりと視界が上下左右に揺れて転びそうになった。何日も海の上で過ごしてきたせいで、体がすっかり波のリズムで揺れるようになってしまっているようだ。
 揺れると評判だったヨット旅の最中、乗り物にからきし弱い僕はひたすら横になって過ごしていた。おかげでひどい船酔いにはならなかったが、その反動が陸地に下りてやってきたのだ。船酔いならぬ陸酔いである。
 それは僕だけでなくモトミくんサヌキくんも同様で、右へ左へとふらついている。南米にやってきたのだという感慨どころではない。宿だ、宿。早く横にならなければ。
「うおぇぇ」
 僕らは自転車を杖代わりに寄りかかりながら、まるで泥酔した酔っ払いのようにフラフラになってセントロの方へと向かった。

 パナマシティに着いて、コロンビア行きのヨットが見つかってからというもの、僕らの雰囲気は少しだけ前に戻ったような気がする。お互いに執着していた当初の約束を果たしたことですっきりしたような気分だった。僕らは一緒にボウリングに出掛けたり、シェア飯を作ったりして久し振りに賑やかな時間を取り戻していた。
 ただし、そこにはこれ以上お互いの旅に踏み込み過ぎてはいけない、そんな暗黙の了解もあったように思う。これから先の南米のルートも同じようなルートだったが、モトミくんはこの先いったん北東の方にある街に行ってみようと思っていると言った。サヌキくんもコロンビアはじっくり見てみたい国だからゆっくり走ることにするよ、と言っている。走り出しが一緒にならないようお互いに気を遣っているのだ。僕も明日、出発することにした。
「じゃあ今日が最後になるな」
 僕が言うと、サヌキくんが「そうだな…」と相槌を打った。それから、お互いに口をつぐんで次の言葉が出てこない。今日までずっと一緒にいたという現実と、明日から一人なのだという未来が交錯していた。場の空気を紛らわすようにモトミくんが声をあげた。
「それじゃあ今晩はご馳走にしましょう!僕、めっちゃいいところを見つけたんですよ」

 夜になって僕らはカルタヘナの旧市街に繰り出した。スペイン統治時代の堅牢な要塞都市で栄えた街は夜のライトアップが美しい街だった。迷宮のように入り組んだ旧市街の、雑多な裏通りの一角にあったポジェリアに僕らは連れていかれた。
 ポジェリアとはスペイン語でチキンを指すポヨを出す食堂のことである。ポヨは国土の小ささから中米で最も重用されていた家畜で、道端で適当に放し飼いされているポヨもよく見かけていたし、どんな食堂にも必ずあるド定番メニューだ。だから今の気分で言えば、ポヨは食傷気味なのだが。
「ご馳走っていうか、ポヨじゃん」
「あはは。でもほら、中米ってどこ行ってもポヨばっかりだったし、最後もポヨを食べて締めましょうよ」
 メニューはポヨしかないという潔いお店の前で、串刺しになった丸焼きのポヨのグリルがくるくると回っている。店頭の白熱電球の陰影で油がぬらぬらと艶やかに光っていた。
「うーむ…」

「最後の晩餐」ということで、僕らはポヨの丸焼きを一人半羽ずつ注文した。パーティ用のオードブルが盛られるような大皿二枚に一羽半の鶏と付け合わせのジャガイモがドデンと載っていて存在感が際立っている。凄まじいボリュームである。話に乗せられて注文したはいいが食べきれるだろうか。何より明るいテーブルの上に持ってこられたポヨは、ますますギトギトで全く美味そうに見えなかった。
 店員がその丸鶏にナイフを一太刀入れると、切り口から油がゴポッとこぼれた。
「うへぇ…」
 用意されたフォークとナイフを使って切り分けてみるも、身がぶ厚すぎてうまく食べられない。これじゃあラチがあかないと、僕は手でポヨを掴み噛り付いた。皮と身の間からぷしゃぁっと油がしたたる。これは鶏肉というよりも鶏肉の形をした油だ。五口目ぐらいまでは何とか食べることが出来たが、まだまだ四分の一も食べていない。
「あっはっは、ひどい味っすね」
 モトミくんが自嘲するように笑う。
「不味いよ」
「あぁ、これ不味いやつな」
 僕らは大きく頷いた。全くだ。もうこれで三人で集まるのは最後かもしれないっていうのに…。本当に全く…。
 それでもポヨへの手を止める人間は誰一人いなかった。「食えねぇよ」とか「すごい油だな」と文句はたらたらと垂れていたが、手をべとべとにしながら、むしゃむしゃ食べ続けていた。はっきり言ってもう食えた代物じゃない。
 でも。
 この夕食が最後なのだ。帰って一晩寝たら、あとはそれぞれ元の旅へと戻ってしまう。戻る、ではなく戻ってしまう、と思っている自分に気付いて僕は「あぁ」と思った。
 中米の景色がフラッシュバックする。うだるような暑さの中、ポタポタと汗を垂らしながら過ごしたあの日々が。手をスイカでべとべとにしながら噛り付いたあの時が。くちゃくちゃと噛みきれない牛肉をゴムゾウリだと言って笑い転げたあの夜が。化学反応のように爆発した楽しい思い出ばかりだ。もちろん関係が悪くなっていた時期のことも思い出していたが、頭をよぎるのは、そうした日々にも透けて伝わってきた、もはや切っても切れなくなっていた僕らの絆のことだ。悩めば悩むほど僕らは仲間だということを思い知った。色々なことがあったけれど、すべてが僕の血肉になっている、今ならすべてを笑い飛ばせるように感じている自分がいたのだ。

「あぁ、もう!」
 僕は気が振れたようにひたすらポヨにかぶりついた。「今ならもう少しうまくやっていけるんじゃねぇの」ポヨを食べる手を止めたら、ついそんな言葉が出てしまいそうだったからだ。
「なんて飯だ、ちくしょう!」
 ヤケクソなのは僕だけではなかった。二人も悲喜こもごも入り混じった珍奇な表情を浮かべながら、口の周りをべとべとにしてポヨを食らい続けていた。
「くそったれ!もう二度とポヨなんて食うかぁぁーっ!」

 三人とも胸やけしそうになって帰った翌日、僕らは出発の準備を済ませ、新市街の大きな交差点で立ち止まった。ここでお別れだ。最後にモトミくんの持っていたインスタントカメラで記念撮影をした。思えば三人が自転車と一緒に写っている写真は今回が初めてだった。
「じゃあな、またどこかでな」
「死なないでくださいよ」
「死なねぇよ」
 そして信号が青になると、三方向に散り散りになってそれぞれの旅へと戻っていった。僕らの旅が、いま終わった。
 本当に。死ぬんじゃねぇぞ。次に会うときはもう少しうまくやれるような気がしてるんだから。
 振り返ることなく僕はペダルを漕いだ。

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