第12話 黄金色のカルド

「ガッハッハ。話を聞いた感じじゃあ、映画の出来も知れてるし、メキシコでスターになるのは無理そうだな。」
 タチートにそう言われ、「それもそうだな」と深く納得した。
「まぁ、やっぱり伊藤ちゃんは自転車野郎で行くしかなさそうだな。さっさと世界一周してこいよ」
「そろそろ行かなきゃですねぇ」
 自転車旅を中断してから、いつの間にか二カ月が経っていた。もう旅立ちの時だと頭では分かっているものの一度腰を下ろしてしまった体はすっかり根が生えてしまっている。
 毎日、寝る場所が決まっていて、自分を知っている人間がいる。それがいかに幸せかということを思い知った。おばあちゃんにどやしつけられながら店の手伝いをして、お客さんともだいぶ顔馴染みになって、飲みに連れていってもらうことも多くなった。街にもずいぶん詳しくなって、セントロを歩いていると「オラ、アツシ」と映画出演を通じて出来た友人たちにばったり出会うことも増えた。すっかり僕も街の一員になっている気がした。旅に出て初めて「離れ難い」と思ってしまったのだ。
 何よりタチートである。
「さっさと行っちゃってくれよ。俺だって暇じゃねぇんだ」
 口ではそう言いながらも、「明日はメルカド(市場)のうまいタコスにでも行ってみるかぁ」と独り言のように言いながら僕を誘惑してくる。もうこれだけ長い時間を過ごしていると彼の性格も分かってきた。きっとタチートも寂しいと思ってくれているのだろう。そしてその言葉に甘えてしまっている自分もいた。
「じゃあもう一泊だけしていきましょうかね」
「同じセリフ、昨日も言ってなかったか?」
 タチートが勝負に勝ったとばかりにニヤリと笑った。

 年中温暖なところだから季節感が狂っているが、しかしもう一二月だ。ここでうかうかしていると来季の南米の夏を逃すことになってしまう。いつまでも甘えてはいられない。行かなければ。
 こうしてタチートと一緒にいると、なかなかアグアスカリエンテスを離れることに決心がつかなかったので、ある日珍しくタチートが出張に出掛けるというタイミングで僕はメキシコシティへと戻るバスのチケットを買った。
「出張から帰ってきたら今度こそ僕はいませんよ」
「ほんとかよ。そう言って帰ってきて、伊藤ちゃんがいたら俺は笑っちまうぜぇ」
「本当ですよ。あ、それと…」
「なんだよ、忙しいから俺は行くぞ。じゃあまたな」
 なんだかいつもの調子で、タチートは出張先のチリへと向かっていってしまった。
 あぁ、最後だっていうのに僕はちゃんと感謝の言葉を伝えられなかったな、と思った。こんな時にしか言えない感謝の言葉がいくつも頭に浮かんだはずなのに、色んなことが逡巡して結局それをタチートに伝えることはできなかった。
 しかしタチートはこれ以上また何か言ってしまえば、僕がまた出発できなくなってしまうことを分かっていたから、ああやってさばさばと行ってくれたのだろう。僕にはタチートの気持ちもよく分かった。
 こういうときぐらい素直になれないもんかね、自分は。気持ちは通じていたとしても感謝の言葉さえもうまく伝えられないのだから。旅に出たからと言って人間の本質は簡単に変わるものじゃあないな。相変わらずひねくれている自分がそこにいたことに僕は少しがっくりとしてしまった。
 そして僕のバスの時間がやってきた。
「気をつけていくんだよ。たまに電話よこしな。それからこれバスでお食べ」
 おばあちゃんが僕にお弁当を作ってくれていた。
「ありがとう。行ってくるよ」
 僕を乗せたバスはメキシコシティへと走り出した。

 それからメキシコシティを数日観光した後、僕はいよいよ旅を再開させた。恐る恐る自転車に跨ってみたのだが、全くブランクを感じさせないペダルの軽さに胸をなで下ろす。何よりいつもの目線より一〇センチだけ高いサドルの上からの目線がやけにしっくり来たのだった。
「やっぱり、俺にはこれだったのかもな」

 やがてメキシコ最後の州となるチアパス州に入った。美しいコロニアル様式の街々が続いた中部メキシコとは変わって、この辺りは雑多であか抜けない街並みが増えた。純血のインディオも多いのだろう。人々の肌はより褐色を増した者が目につく。
 この日は街に辿り着けず、街道に面した自動車整備工場の二階にある宿に部屋を取った。
「ご飯を食べるなら早めに行った方がいいよ。明日はクリスマスだからね」
 宿のおかみさんに言われて気付いたが今日は一二月二四日だった。
水量の弱々しいシャワーをさっと浴びた後、通りに出てみると、確かにどこも店じまいの準備に早くも追われていた。やばいやばいと慌てて目についたビニール屋根の小さな食堂屋台に駆け込む。ここももう椅子をテーブルの上にあげて閉店の準備をしているところだった。
「すいません、まだやってますか?」
「今日はもう終わっちゃったよ」
 一歩遅かった。
 ところが「あぁそうですか」と去りかけたところで「ちょっと待って」と呼び止める声がかかった。おばさんは寸胴鍋のかかった鍋を見ながら言った。
「カルド(スープ)なら出せるよ」
 僕はカルドスープをカップに入れてもらうことにし、おまけでトルティーヤを何枚かつけてもらって宿に戻った。

 宿に戻ってカップを開けてみると、「失敗したかな」と思った。
 うっすらと黄金色をしたスープに鶏の手羽元がプカプカ浮いている。カルドといえばメキシコでポピュラーな料理で、煮込んだチキンか牛肉と一緒にジャガイモやニンジンなどの野菜がゴロゴロ入ったスープのことである。だからこのシンプルすぎるカルドには大きく期待を裏切られてしまったのだ。
「まぁ閉店間際だったわけだし仕方ないかな。それにしても随分わびしいクリスマスだな」と苦笑した。
 だが、気を取り直してカルドをスプーンですくい口に運ぶと、僕はその味に「えっ」となった。たじろぐような一瞬の間を置いて、もう一すくいカルドを口に注ぐ。
「………!」
 なんといううま味だろうか。決して主張するわけではない、けれど確かな存在感を放つ滋味が口の中に溢れた。一口、一口ごとに鶏のエキスが全身を震わせながら染み渡る。スープなのにまるで鶏そのものなのだ。これほどまでにシンプルで優しいスープを僕は飲んだことがあっただろうか…?
 手羽元にスプーンを入れると、ホロホロと身が崩れた。決して残り物の料理ではなく時間をかけて仕込まれたものだということは明白な料理だった。
僕はしばし恍惚となって、カルドにスプーンを伸ばし続けた。透き通った黄金色のカルドを口に運ぶほどにポカポカと心が浄化されていく。なんて、なんて美しい味。

 夕食を終えるともうすっかり夜だった。珍しく静かな夜だ。ここが街とも呼べない街道沿いの集落だからだろうか。部屋の窓から顔を出してあたりを見回してみる。暗がりの向こう側にポツリ、ポツリと明かりが灯っているのが見えた。
「みんなささやかにクリスマスを祝っているのだろうな」
 それぞれの明かりの向こうの景色を想像すると、僕はとても繊細で、でも幸福に満ちたものに触れたような気持ちになった。

 それからパソコンを開くと、タチートからメールが届いていた。タチートの六〇歳の誕生日が近いということで、贈ったテキーラのお礼だった。実は以前に食堂のお客さんにテキーラ村に連れていってもらった時にテキーラを買っていて、誕生日が来たらプレゼントしてほしいと頼んでおいたのだ。
「ホセ・クエルボは一晩で飲み切ってしまいました。美味しかったです。またアグアスに帰ってきてください。謹賀新年。」
 クリスマスだというのに一足先にお正月の挨拶をするタチート。相変わらずだなぁ、僕はくすりと笑いながら、今晩も楽しい宴が開かれているだろうアグアスカリエンテスのお店を懐かしんだ。
 そしてあの別れ際、タチートにちゃんと伝えられなかった感謝の気持ちを書いて返事のメールをした。なんとなく今のこのタイミングなら素直に伝えられそうだったのだ。
「喜んでもらえて良かったです。飲み過ぎには気をつけてくださいね。今日、チアパスに入りました。あと一週間ほどでメキシコを抜けますが、必ずアグアスに戻るので待っていてください。おばあちゃんにもよろしくです。改めてお世話になりました。ありがとうございました。また会いましょう。Feliz Navidad(メリークリスマス)」
 旅に出たからと言って人間の本質は簡単に変わるものじゃあない。けれど、素直になれるちょっとしたきっかけには、思いがけず出会えるものなのだろうと思った。


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