第17話 コロンビアを走り出してみたら

 以前、チリで働いていたことがあったというアメリカ人女性に出会ったことがある。チリはなかなか就労VISAを取得するのが難しく、そのため滞在期限が来る度に近隣の国へ出入国を繰り返し、滞在していたのだという。その女性が言っていた。
「アメリカ人がラテンアメリカ圏で就労VISAを取りやすいのは、メキシコにホンジュラス、それにコロンビアね。そもそもメキシコなんて国境周辺は運転免許だけで出入り出来ちゃうのよ」
「へぇぇ、それは知らなかった。アメリカに近い中米は分かる気がするけど、南米でコロンビアだけがVISAが取りやすいどうしてなんだろう?」
「さぁ。でもコロンビアからメキシコはアメリカまでのドラッグルートだからね」
 笑えるようで、笑えないアメリカンジョークである。

 一九八〇年代、横行する麻薬ビジネスによって治安が地の底に落ちた世界最大のコカイン生産国コロンビア。メデジン・カルテルやカリ・カルテルなどの巨大麻薬組織の衰退によって、二〇〇〇年代以降治安は急速に回復をしているそうだが、未だ山岳地帯の奥地には組織の残党や反政府ゲリラが潜んでいるらしい。これからは一人の走行になるから、その点について僕は少しだけ心していた。
 ところがいざ走り出してみると、
「なんだ、これまでとあんまり変わらないじゃないか」
 そんな印象を受けた。濃厚な常緑の森に、ねっとりと漂う重たい空気。中米と変わらない。よくよく考えてみれば大陸は変わったとはいえ、ここはパナマとも数百kmしか離れていないような場所だ。
 がらくたが山積みになった電気屋のスピーカーから軽妙なダンスミュージックが大音量で流れている。
「♪ノサ ノサ アシム ヴォセ メ マタ アイ セ エウ チ ペゴ アイ アイ セ エウ チ ペゴ♪」
 ブラジルのミシェル・テロの曲だ。歌詞はポルトガル語だが、中米の至るところで耳にしていた曲である。おそらくラテンアメリカ中で爆発的に流行っているのだろう。爆音で流されているその曲はドムッドムッと低音部が割れて聞くに堪えないことになっていたが、そんなことを気にしている奴は誰もいないのもこれまでと同じである。

 中米と変わらないと言ったコロンビアだが、明らかに変わったと感じる部分もあった。全体的に人の感じがいいのだ。全体像でその国を語る事はあまり好ましいことではないが、良く言えばまともな人間が増え、悪く言えばいい加減な奴らが明らかに減った。
 実際にこの国では特に親切にしてもらうことが多かった。食堂に居合わせた客に混ざってビールをご馳走になることがこのところ毎日続いていて、宿では僕の法外な値切り交渉に快く応じてくれたばかりか、晩御飯まで食べさせてくれるところもあった。ラテンアメリカ特有の楽観的な空気に、この国の人々の持つ飾らない善意が混じり合って居心地が良い。
 本当にこの国がついこの間まで世界最悪の治安と恐れられていた国なのだろうか。いや、数々の悲しみを知ったからこそ人は優しくなれるのかもしれない。
 この国では自転車が盛んだから、という理由もあると思うが走っているとみんな手を振って応援してくれる。長らく外国人や旅行者が訪れていなかったこともあって、圧倒的にすれていないのだ。中米で出会った旅人から「コロンビアは今、穴場の国だよ」と教えられていたのだが、それはただの噂の独り歩きではなかったようだ。

 暑さにやられて、木陰で横になって休んでいると、車からおじさんが降りて僕に向かって駆けてきた。
「大丈夫か!?」
「うん、ちょっと休憩していただけだから」
 こんな心遣いが嬉しいものである。
「そうか、でもキツかったらコカイーナもあるぞ?」
「ええっ」
 聞き間違いかと思ったから僕はもう一度聞いた。
「コカイーナだ。やるか?」
 コカイーナとはコカインのことである。
「………」
 コロンビアの人間はいいやつばかりだ。でもやっぱりここはドラッグルートなのかもしれない。

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