第19話 世界で一番高い火山

 寝袋からひょこっと出した顔に冷気を感じて目が覚めた。びゅうびゅうと獰猛な風の音が真っ暗な窓ガラスの向こうから聞こえてくる。かなり深い眠りについていたように思うが今は何時だろう。時計に目をやるとまだ午後九時半。たった二時間しか寝ていなかった。
「やっぱり緊張しているのだろうか…」
 軽い痛みを覚えるお腹をさすりながら、心配になった。四八〇〇メートル地点にある山小屋での夜のことだ。

 アンデス山脈のスペクタクルな風景をこれでもかと見せてくれた南部コロンビアを越えてエクアドルに入ると、山の斜面をパッチワークのように継ぎはぎに耕作した牧歌的な景色へと変わった。同じアンデス山脈でも国によって山とのずいぶん付き合い方が違うようだ。ただし、斜面に畑をそのまま作ってしまうお国柄だから、道路も山に向かってズドンと一直線に延びていてアホみたいな傾斜になっているのはいただけない。
 四日後、国名の由来にもなっている赤道に差し掛かった。当たり前だが、そこには赤い線が引かれているわけでもなく、道路脇に「LA MITAD DEL MUNDO(世界の半分)」と書かれたオレンジ色の看板と石碑がポツンと立っているだけだった。そこを民族衣装を着たインディヘナのおばちゃんがロバを曳きながら、北半球と南半球を「普通に」行ったり来たりしている。
「………」
 足掛け一年近くかけてやってきたのに何て有難みの無さだ。もうちょっと「地球の真ん中!」感があってもいいのではないか。いや、期待していたわけではなかったけれど…。
 どうも釈然としない思いのまま首都のキトに到着した。新市街をぶらぶら歩いていると、山道具の店がよく目立つ。登山が盛んな場所なのだろうか?ツアー会社の前でも「HIGHEST MOUNTAIN」といった仰々しいコピーを見かけた。どういうことなのだろうと宿に帰ってから少し調べてみた。どうやら地球の形というものは完全な球体ではなく僅かに東西に長い楕円らしく、そうなるとエクアドルの赤道周辺の山々は地球のコアからの距離がエベレストよりも高くなるのだそうだ。
 ふむ、なるほど。宿の窓から街に沿って連なる山々を眺めてみた。このあたりは「アンデスの廊下」と言われる風光明媚な山岳地域である。こんな身近なところに世界一が転がっているというのもなかなか面白そうじゃないか。
「これこそ赤道ならではの体験になるはずだ」
 そんなわけで僕はエクアドル第二の高峰であり、世界一高い活火山五八九七メートルのコトパクシ山に挑戦してみることにしたのである。
 
 ところがやはり六〇〇〇メートルに近い高山ということで、コトパクシはお手軽に登れるような山ではなかった。登山初日は四六〇〇メートル地点まで車で移動し、四八〇〇メートルにある山小屋に宿泊することになったのだが、駐車場に下りて少し歩いただけでとんでもなく息が切れた。
「はぁはぁ、ま、まじかよ…」
 そもそもこんな高地自体初めてなのだから当たり前だった。からからに乾いた砂礫地帯は見た目よりも深く、足を取られた。一歩一歩が人生最高地点の更新である。たった二〇〇メートルの高度差を一時間もかけて山小屋に到着すると、すぐ近くから氷河が広がっていた。そこより先は雲に隠れてしまっていて、何も見えない。
「一体どこまで続いているのだろう…」
 臆病風に吹かれた僕はギュウっとつねられるような鈍い痛みをお腹の底から感じていた。

 不安でよく眠れないまま日付が変わり、山頂アタックの時間を迎えた。簡単な朝食が用意されていたが、食欲もなく、備えてあったヨーグルトとお茶だけを腹に流し込んだ。
 僕のパーティはガイドのパブロ、ベトナム人のアン三人で、もう一つのパーティはガイドのマルコとべリンダというオーストリアの女の子の二人、いずれも同じツアー会社に申し込んだメンバーだ。このグループで頂上を目指して登り出した。
 外の気温はマイナス一〇度といったところだろうか。小屋を出るとすぐに昨日確認していた氷河末端部にぶつかった。ザイルでお互いに繫ぎ合い、アイゼンをプラスティックブーツに装着し、氷の地面に突き刺すようにして歩く。けっこうな傾斜である。初めは土交じりだった氷原が少しずつ混じり気のない雪原へと変化していく。
 五〇〇〇メートルを超えたあたりで、ピリッとした痛みが一瞬頭に走った。高山病が頭によぎる。一抹の不安を抱えながら進んでいると、前を行くアンは既に大きく肩で息をするようになっていた。歩くペースが徐々に落ちて、ピッケルにもたれて休憩をする回数が増えている。後発のパーティにもどんどんと抜かれてとうとう僕らは最後方まで落ちていた。
「アン、残念だけど…」
 パブロが登山終了の知らせを告げる。山は逃げないが、絶対的な現実を突きつける非情さも持ち合わせている。
 そして本来のルールならばどちらかが脱落した時点で僕らの登山は終了となるのだが、この時はパブロが気を利かせてくれ、僕がマルコ・べリンダ組に合流出来るよう取り計らってくれた。
 しばらく急な雪原地帯が続いた後、氷壁地帯に入った。蛇行しながらそびえるような壁を越えていくと、前方でヘッドライトの明かりが停滞していた。どうしたのだろう?その明かりがはっきりと見える場所まで近づくと、二〇メートルはある巨大な氷壁がヘッドライトの光線を跳ね返していたことに気が付いて僕は唖然となった。大氷壁のすぐ下には二メートル程の幅の張り出しがあって、そこから先は再びすっぱりと切れ落ちて、ライトの明かりも届かない底知れぬ闇へと繋がっていた。
「ここは危険だから、僕らは別のルートを取ろう」
 マルコの提案で僕たちのパーティはそこを迂回し、別なルートを探すことにした。しかし、回り込んだ先々のことごとくに大きく避けたクレバスがあり、前に進むことが出来ない。進んでは戻り、進んでは戻りを繰り返し、安全なルートを探したのだが、この高地では体力の消耗が激しい。お腹も時折ギリギリとつねるような痛みが走る。べリンダもかなりきつそうそうだった。
 頭痛はさっきの一瞬以来なかったが、ひどく眠くなってきた。永遠に暗闇の中にいるようなぼんやりとした気持ちで歩いていると、右足をとられた。「あっ」と思った瞬間には斜面に転がり落ちていた。幸いにも繋がれたザイルのおかげで二メートルほどの滑落で済んだが、斜面の先に展開される漆黒の暗闇を見ても僕はぼんやりとしていて恐怖心も何も感じなかった。生きている心地のしないふらふらとしたこの感覚が、もしかしたら生と死の狭間にいる感覚なのかもしれない。僕をこっちに繋ぎ止めているのは氷原に僅かに食い込むアイゼンとこのザイルだけだ。なんてあっけなくて頼りないものなのだろう。
 この頃になるとベリンダも体力的に相当厳しくなっていて十歩進んでは休むというような状態になっていた。この寒さにベリンダは指先をやられたらしく、マルコが必死に自分の吐息を送って彼女の手を温めていた。
「あと少しだ、がんばろう。山頂の景色を僕は君たちに見せたいんだ」
 この言葉がどんな風に彼女に響いたかは本人しか分からない。しかしベリンダは再び歩き始めた。
 ただこれだけの高所になるとなかなか息は続かず、再び十歩歩いては休むという有様だ。僕も次の休憩の際にマルコにもたれ掛かるように倒れ込んだ。疲労困憊の僕とベリンダをサポートしながら上るマルコも相当疲れているはずなのに彼は僕を抱き支えてくれた。
「アツシ、僕の国に来てくれてありがとう。あと少しなんだ。だから頑張ろう」
 彼の言葉は僕の中にすっと入ってくる。ぎゅっと抱きしめる彼の胸を「温かい」と感じる自分がいた。
すると僕は何かを取り戻したかのようにそれまでの倦怠感が消え失せ、頭が冴えだした。この闇の帳に覆われた凍てつく世界で触れた小さな温もりが、僕の凍り付いた生命力を急速に溶かしていくようだった。
 
 やがて空がインディゴ色に移ろい出し、あらゆるものを吸い込むかに見えた表情のない暗黒に少しずつ陰影を与えるようになっていた。このとき始めて山頂が見えた。
「あとちょっとだ」
 あえぐような足取りで頂きを目指した。僕らの反対側だった太陽の光があと五メートルで山頂というところでこぼれた。一歩一歩上るごとに、輪郭が大きく、くっきりとなっていく。不思議な感覚だった。これだけ直視しているにも関わらず全く眩しくないのだ。
 太陽の全貌があらわになった時、ついに僕は頂きに立った。そしてそのまま崩れ落ちるように僕は倒れた。仰向けになると、視界の先に広がるのは異様な濃さの空だけだった。止めどない涙が溢れてくる。
「やった、やった。ついに登り切ったのだ。」
 
 ぜぇぜぇと荒れた息を何とか整えて体を起こす。山頂は猛烈な風が削ったのか逆立った鱗のような形の氷がびっしりと張り付いていた。僕らは火口の縁にいるらしく、振り返るとうっすらガスを吐き出す大きな穴ぼこがすとんと開いていた。見渡す限りの雲海がうねり広がっている。途方に暮れたはずの雲の遥か上に僕はいるのだ。
 遠くにいくつか山が見える。「あれがチンボラソだよ」とマルコが教えてくれた。こっちが世界一高い活火山なら、向こうのエクアドル最高峰は世界一高い山である。
 もしかすると赤道の山々がヒマラヤよりも高いだなんて詭弁だ、と言う人もいるかもしれない。単なる言葉遊びなのかもしれない。でも、いいのだ。このテラスから見下ろす世界の眺めは、僕にとっては紛れもない世界一の眺望だったのだから。
 僕は再びべリンダとマルコと抱き合い、この天空世界に辿り着いた余韻に浸っていた。

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