第10話 テレビデビューとまさかのスカウト


 一週間後にテレビの収録があるということで、それまで僕はこの日本食レストラン浅草に泊めてもらうことになった。タダでというのも忍びなかったので、皿洗いや買い物の荷物持ちなどお店の手伝いをしながら過ごした。
手伝ったと書くと何だか立派に聞こえるが、まぁ基本的には毎晩、常連のお客さん相手に繰り広げられるタチート・オン・ステージを見ながらゲラゲラ笑っていたわけだけれど。
 ただ、お店が忙しい肝心な時にそうやって油を売っていたものだから、おばあちゃんからは「全く伊藤ちゃんは!」とよく叱られていた。でも、そんなことも普通の日常から離れて五カ月も経っていた僕にとっては新鮮で、どちらかと言えば叱られたくて、そうしていた節もあった。

 そしてテレビ収録の日がやってきた。スタジオに向かう車の中でタチートがシナリオを決める。
「いいか、伊藤ちゃんは南米を目指して自転車を漕いでいたらスタジオに迷い込んでしまったんだ。飯もろくに食ってないから、ふらふらだ。そんなところでカメラに気づく。そしたらカメラに向かってなんか言うんだ」
「なんかって!なんて言えばいいんですか?」
「何でもいいんだよ!だいたい今日、伊藤ちゃんが来るってことはスタッフも知らねぇ。あとは適当にうまくやれよ。ガッハッハ」
「………」

 スタジオに着くと、人心地をつく間もなく収録が始まった。生放送の番組である。
 司会のタチートと相方のアントニオがオープニングで掴みの軽妙なトークをしている。いったいどのタイミングで割って入ればいいのだろう。だいたいスペイン語も覚束ない僕が何を話せばいいのだ。
 あれこれ悩んでいる中、突然タチートはアントニオに「おい、あそこになんかいるぜ」と僕の方見て話を振った。ちょっと待ってくれ。何という唐突な無茶ぶりだ。しかしこうなってしまってはもう退路は断たれた。やるしかないのだ。
「どうにでもなれ!」
 僕は打ち合わせ通り自転車を押しながら必死で苦悶の表情を浮かべ、ヨロヨロとタチートとアントニオに向けられているカメラにフレームインした。そしてカメラの前に来ると、ハッとカメラに気付いたリアクションをした。
すると、急に頭が真っ白になった。名前と自己紹介、それぐらいはスペイン語で言おうと思っていたのに、言葉が浮かんでこないのだ。周りの時間が止まったかのようにスローモーションになった。その間も超高速回転で頭の中のスペイン語辞書を開いているのだが、めくってもめくっても何故か白紙なのだ。
 そして永遠のような一瞬に思考を巡らせて、やっと一つの言葉を探し当てた。しかし、この言葉でいいのか?違う気がする。いや、もう言うしかないのだ。言ってしまえぇー!
「ビ、ビバ メヒコ(メキシコ万歳)」
と僕は大袈裟な笑顔と右手の親指を立てて言い放ち、再びヨロヨロと自転車を押してフレームアウトした。
「………」
 これは流石のタチートでも拾い切れない超悪球だったようで、場の空気も一瞬凍り付いたのが分かった。スタジオでさえそうなのだから、テレビの前の視聴者は今頃ぽかんとしているのではないか。
 何であの場面でメキシコ万歳なのだ、もっとマシな一言だってあったんじゃないのか、馬鹿かおのれはぁぁぁーと僕は一人スタジオの隅で赤面した。
番組はその後、僕のことに触れることなく進行していったのだった。
 
 収録のあと、カメラマンをしていたメガネの若い男に声をかけられた。背の高い痩身で無精髭が似合う、カメラマンにしておくにはもったいないくらいのいい男だった。
「いま、僕らは短編映画を撮っているんだ。それに出てみないか?」
 リノという男はそう言った。
「未来の日本を舞台にした映画を撮っていて…、それに日本人の君に出てもらいたいんだ」
 やれやれテレビの次は映画、である。出来すぎにも程がある話だ。だいたい僕は今日、たまたまここに現れた日本人だ。しかもただの旅行者である。君も今の大根演技を見ただろう。何がどうなって映画に出演となるのだ。
 しかし不思議だったのは、この妙な状況を面白おかしく感じている自分もいたことだ。そういえば、メキシコ万歳と言っている時も、ド滑りしている状況を滑稽に感じているもう一人の自分がいたような気がする。このままずっと話に流されていったら僕はいったいどこに流れ着くのだろう、と少し僕の遊び心が疼いた。この予想のつかない方向へ流れていく僕の旅を一番面白がっているのは自分自身だった。もしもだ、映画が当たってメキシコで俳優生活を送る事になったら…、まぁそれはそれで悪くないかもしれない。これもタチートの教えてくれた運命自招なのだと僕は自分に言い聞かせ、リノに「分かった」と返事をした。

 夜はタチートとアントニオと飲みに出かけた。タチートは今日の収録を振り返りながら僕をなじった。
「あそこでメキシコ万歳だからなぁ。さすがの俺もどうしたらいいか分からなかったぜ」
「そんなこと言わないでくださいよ。なんか言えって言うからあぁ言ったんですよ。」
「だからってメキシコ万歳はないだろうよぉ」
「いやぁ、頭が真っ白になっちゃって。ほら、二週間前って独立記念日だったじゃないですか。あの時みんなビバ メヒコって言ってたのが急に浮かんだんです」
「そうかい。でも映画にスカウトされたならよかったじゃないか。自転車野郎から映画俳優。人生どうなるか分からないよな、きっと面白くなるぜぇ」

 ビールを二本とテキーラをショットで飲んだら僕はすっかり酔っ払ってしまった。アントニオと別れ、帰り道に拾った赤いタクシーは冷房の壊れたオンボロだった。ハンドルをくるくる回して窓を開ける。うっすらと湿り気をまとった夜風が気持ちいい。
 なんだか今日一日、いやタチートと出会ってからの日々がずっとおかしな夢の中にいるような気分だった。本当なら今頃、メキシコシティに着いている頃なのに、僕はまだこの街にいる。旅の行き先なんて本人でも分からないものだな。
「メキシコっすねぇ」
 僕は、わけもなくぼそりと口にした。
 助手席でそれを聞いていたタチートに僕の気持ちが伝わったのかは分からない。それでも彼は、
「おう、メキシコだ」
 そう答えた。

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