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(終了しました)神戸ルミナリエ―光となる魂

1月の中ほどから末にかけて、毎年神戸の中央部で開かれる、お祭りでも式典でもないイベントがあります。神戸ルミナリエです。

実は久々

例年、元町駅から三宮駅方向へ大規模に自動車の流れを規制し、歩行者天国として大々的にやっていますが、年を経るにつれ予算が厳しくなっており、20年以降のコロナに伴って今まで開催されていませんでした。24年になり、ずっと眠り続けていた、光となるべき魂が光る時が訪れたのです。

今回は小さめだった

それもそのはず、その予算はほぼ観覧者の募金によるものだったからです。なんともお粗末な話だなと思うかもしれませんが、このルミナリエというイベント自体、営利目的ではありません。また、1月台に開催することにこだわりを見せていますが、これには理由があります。

校外学習的ルミナリエの見方

メリケンパーク会場、壊れたままの港湾施設

1995年1月17日、阪神・淡路大震災。神戸市民をはじめ被災地域では忘れもしない日です。
写真にある港湾施設は、震災時に崩壊したままの様子を残し続けている特別な区画。

神戸港震災メモリアルパーク」と呼ばれ、当時の状況が事細かに文字で表されているほか、被災者への配慮として、見ようと思わなければ見られない、奥まった構造となっています。パークという名前ですが、公園的に整備されているわけではなく、単に見学するだけの区画となっています。

改めて、ルミナリエの意義を

メリケンパーク会場、正面から

ルミナリエは、元々、震災の被害にあった方々の魂をあらわし、後世に伝える意味を有しています。決して冬場で夜だからロマンチックだから、という安直な理由だけで開かれているイベントではありません(その理由だけで良いなら、もっと幅広い期間にフルーツフラワーパークで別のイルミネーションイベントが完全有料で開かれています)。だから開催期間は1月にこだわっているし、営利目的ではないのです。見に行く以上は、しっかりと開催の経緯や目的を理解してほしいと個人的には思います。

震災から30年、ずっと行われてきているこのイベントですが、観覧が有料となったのは、今回が初めてだったのです。

今こそ伝承の連鎖を

震災というと、その被害の規模や様子から、気分が暗くなり、精神を病んでしまうケースが最近多く見受けられます。
1月1日に発生した能登半島地震では、ネット上で「気分が滅入る」「どのテレビ局も津波の映像ばかりで見ていて疲れる」等の書き込みが連発していました。

それ以外にも、3月11日の東日本大震災、4月14日の熊本地震など、発災日が近づくと、特にテレビ局は当時の被害を伝えるため、積極的に被害の状況を収めた映像を流します。

これ自体は、当時の被害の大きさを伝えるために必要だと思いますが、問題は、流したら流しっぱなしで、落ち込んだ気分を戻すための、または落ち込ませない取り組みが一切されていないことにあります。

神戸ルミナリエは、被災者の魂を光としてあらわし、震災の事実を伝承することが目的のイベントです。そこに震災当時の被害を映したものは積極的には設けられず、人々は単にイルミネーションのみを楽しみ、その場をあとにします。

明確に震災当時はこんな様子だった、という学習をするには全く足りませんが、イベントの目的に鑑みれば、このイルミネーションを仕立てるという行為は必要十分であると言えるでしょう。

見る人は「わあ、きれいだな」と思う。その裏には、「ここには被災者の魂が宿っている」という思いがまたあります。震災の事実はここで思い浮かぶけれども、それによって気分が落ち込んだり、精神を病んでしまうことはありません。非常に優れた伝承の形であると思います。

営利目的でないため、予算は協賛のほか観覧者の募金が含まれています。募金であって、入場料ではないのです。毎年、情勢の変化や募金額の減少が組み合わさり、開催自体はされるものの、規模は小さくなっていき、今回に至ります。
入場が有料となったのは、震災以降このイベントが開かれ、ここに来て初めてのことでした。

開催の目的からすると、予算が足りないから中止、というのはだいぶ望ましくありません。被災者の魂がそんな理由であらわれないことになれば、そこで伝承の連鎖は止まることになります。

せっかく誰も傷つかない優れた形の伝承が続いているのに、予算ごときでその連鎖が止まるのはもったいない。そうならないように、今回初めて有料区画が作られたのです。来年以降のルミナリエに、この収益が大いに活用され、往年の大規模な「ルミナリエのあるべき形」が再度実現することを、いち神戸市民として願っています。

今年(24年)は小さかったな、と思うかもしれません。しかし、そこで考えをやめ、次回行くのをためらうのではなく、「次回こそ大きくやってくれる」と期待して来場することが、伝承の連鎖を太くし続ける要素となるでしょう。