作為のつまらなさ

いよいよ周りにいる人たちが同じことを口にし始めていることを確かめ始めている。みんな明らかに作為的なことに飽きてきていて、偶発性に可能性を感じ始めている。

先にゴールが見えていて、そのあとにどんな反応が待っているのかがわかっていることを面白くないと思い始めていて、だったら自分でなんか始めてしまった方がこの退屈な時間をもっと楽しく過ごせそうだと思い始めている。


どこか遠くのよくわからないことには興味は持つことがなく、自分に関わることに興味が向かい、情報はどんどんタコツボ化していく。しかも一定規模をそのタコツボが確保できるものだから、結果的にはそこで十分に暮らしていけるということになる。

距離の近い関係には鬱陶しさを感じていて、興味の持てる楽しい話題に心をワクワクさせていて、オンラインがそのコミュニケーションを十分につなぐことができるので、だれも全然困ることがない。一定の閉鎖性が安心感をつくるので、不安がなくむしろそこから出る気にはならない。


時代はどんどんスピードを増していて、変化は予想するものではなく、事実として起こった変化を受け入れて、そうであれば何をするべきかということを見据えて行動していく意外にやることはとくにない。

計画を立てる時間はむしろ行動して経験し、学ぶ時間を阻害するので、手を打つことがさらに後手に回すことになるので、きちんとした計画を立てさせようとする統治の思考を脱却しない限りは、こうした「立てた計画がひっくり返ったので、もう一度立て直しのための計画を書いたがまたひっくり返って、さらにもう一度計画を」ということになりかねない。


そんな景色を見ていると、未来を見据えた提案をしてきた社内のホープは愛想を尽かして他の会社で可能性を試すべく転出していく。統治の仕方ひとつで戦略を間違うだけにはとどまらず、人材の流出に拍車をかけることになるし、その判断の遅さが際立ってしまうような時代だとも言える。


ただ作為的にやることが当たり前でそれでなんとかやりくりしてきた組織をいきなり変えることはできず、結果的には生態系のルールに従って、淘汰をされるべき存在はその存在の特質ゆえに、一時期に栄華を誇って、急激に消えていくということにならなくてはいけないのかもしれない。


ひとつの時代は終わりを迎えようとしているような気がしていて、その中に確実に「作為的に行う」「計画通りやる」ということも一つ終わりを迎える要素の一つとして数えられるような気がする。

だって面白くないから。

急に読者の方からサポートもらえてマジで感動しました。競馬で買った時とか、人にやさしくしたいときやされたいとき、自暴自棄な時とか、ときどきサポートください。古民家の企画費用にするか、ぼくがノートで応援する人に支援するようにします。