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新版『ドン・キホーテ』島村・片上訳【前編】

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セルバンテスの小説『ドン・キホーテ』。 ネット上に(青空文庫にも!)、「無料」で「自由」に読めるテキストがまったくないので、島村抱月・片上伸(のぶる)訳を書き起こし、文章を読み…
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第十章 ドン・キホーテとその家来サンチョ・パンサとの間に取り交されたおもしろい議論のこと。

 托鉢僧の騾馬引きどもに少々痛めつけられたサンチョは、丁度この時立ち上った。そして自分の主人ドン・キホーテの勝負を見守りつつ、心の中にはどうか神様の御意によって自分の主人が勝つように、そしてそれによって自分は、かつて主人が約束したように一つの島を得てその島の太守になれるようにと、神に祈っていたのである。そこで、今や勝負が終って、主人がロシナンテに乗ろうと引き返して来るのを見ると、彼は鎧を抑えてやるために主人に近寄った。そしてまだ主人が乗馬しないうちに、その前に跪き、その手を取

第九章では勇ましきビスケイ人と雄壮なマンチャ人との猛烈な真剣仕合が終りを告げおしまいになる。

この物語の第一巻では、雄壮なビスケイ人と有名なドン・キホーテとが互いに抜身の剣を振り被って、もし二人がしっかりと見事に打ち下しさえすれば、敵手を眉間から爪先までずばりと真二つに斬り裂いて、柘榴のごとくあんぐりと横たわらせるであろう、とそう思われるほどの猛烈な鋭い打撃を今にも与えようと身構えしたというところで、そのままにしておいた。そしてそれほどに大事なところで、この面白い物語は中絶して尻切れになって、その脱落した部分はどこを捜せばあるのだか、作者から何の断りもなかったのである

第一章には名高い紳士、ラ・マンチャのドン・キホーテの人となりと平生とを述べる。

 名はわざと省くが、ラ・マンチャのある村に、久しからぬ前、長押の槍、古い楯、痩せ馬、狩りのための猟犬などを備えている紳士の一人が住んでいた。羊肉よりも牛肉の多いゴッタ煮、大方の晩は肉生菜、土曜日には屑肉、金曜日には扁豆、日曜日には小鳩か何かの添え皿、これで所得の四分の三は使った。その余りは、安息日に似合わしい地の好い胴衣、天鵞絨のズボン、靴となった。そしてただの日には、一番よい地織りもので豪気な風をした。家には四十余りの家婢と二十に届かぬ姪と、馬に荷駄をも積めば山刀をも振り、

第二章には工夫に富めるドン・キホーテの初めての門出を述べる。

 こういう用意が整うたので、非違の正そうと欲するもの、難儀の救うべく、非道の改むべく、弊害の除くべく、義務の果たすべきものを思えば、自分の猶予のために世界中が損亡をしているという考えにせき立てられて、彼は自分の計画の実行を、もはや延ばす気はなかったのである。そこで、だれにも前もって自分の目論見を知らさず、まただれの眼にも触れないで、まだ日の白みそめぬある朝(それは七月の月の最も暑い日であった)、彼は鎧に身を堅め、にわか細工の兜をいただき、ロシナンテに打ち跨り、円楯を掴み槍を掻

第三章にはドン・キホーテが騎士の位を受けた道化た式の次第を述べる。

 それを思うと気が揉めて、彼は貧しい一膳飯流の晩餐をそこそこにすませた。喰べてしまうと主を呼び、一緒に厩のなかに閉じこもって、その前にひざまずいて言った。「武勇の騎士よ、足下の寛典をもって拙者が求める賜物を授けたもうそれまでは、拙者はここを立ち上りません。そのものは足下の美名と人類の利益とに貢献するでござりましょう。」主は自分の脚下にいる客人を見、こんな口上を聞いて、何とし何と言ってよいやらわからず、ただ驚き呆れてじっと見つめたまま立っておった。お立ちなされとしきりにすすめて

第四章 旅籠を出てからわが騎士の身に降かかったことども、

 騎士の位を授けられた嬉しさに、馬の肚帯も踏み裂かんばかり、にこにこと、浮かれあがり勇み立って、ドン・キホーテがかの旅籠をあとにしたのは、日も東雲のころであった。しかしながら、携帯すべきはずの調度、とりわけ旅銀とシャツとについてかの主の心づけを想い出して、彼は家に引きかえして一切の仕度をととのえ、また一人の家来をも召しつれようと決心したのである。それは、彼の近所のもので、妻子のある貧乏人ではあれど、騎士の家来の役目には極めてあつらえむきの、一人の小作人を手に入れるあてがあった

第五章 には、わが騎士の災難の話が続く

 さて、まったく身動きのならぬのを知って、彼はいつもの救治策に頼ろうと考えた。それは自分が読んだ書物のある一節のことを思うのである。すなわち取りとめもない彼の心は、カルロートーがマンテュア侯爵に手を負はせて山腹にうちすてておいたときの、ボールドウィンとマンテュア候爵とに関する一節を想いだしたのである。子供らは暗んじており、若い者どもは忘れず、老人は感服して信じてまでおる話である。それでありながらマホメットの奇蹟ぐらいにしか当てにはならぬのである。それが今の彼の身の上にぴったり

第六章 わが工夫に富める紳士の書庫で牧師補と理髪師との為した、おもしろくも重大な検査のこと。

 彼はまだ眠っておった。そこで牧師補は姪にかのすべての禍を作りださした書物のある室の鍵を求めた。姪はすこぶる快くそれを渡した。人々はみな、家婢も一緒に入っていった。見れば極めてよく装幀した百冊以上の大冊と、別にいくらかの小冊子とがあった。家婢はそれを見るや否引き返してその室を駆け出し、まもなく一皿の神水と水撒きとを持ってかえってきて、『さァあなたさま、学士さま、この室をお浄めなさんせ。魔法使いを一人でも残してお置きなさんすなよ。そいつらをこの世から追い出そうというわしらの目論

第七章 わが天晴の騎士ラ・マンチャのドン・キホーテが二度目の門出のこと

 このとたんにドン・キホーテは怒鳴りだした。『いざいざ、剛勇の騎士どもよ! ここでこそ御身たちが強き武力を揮うべきじゃ。宮廷の人々は試合に勝を占めようとしておるではないか!』この物音と叫びとに気を奪われて、人々は残りの書物の検査をそれ以上に進めなかったのである。それゆえ「カロレア」、「スペインの獅子」およびドン・リュイス・デ・アヴィラの書いた「皇帝御事蹟」は、見られもせず聞かれもせずに火中にせられたと思われている、なぜといえば、疑いもなくそれらは残部の中にあったので、恐らく牧

第八章 恐ろしい夢想せられたこともない風車の冒険に際して、勇敢なるドン・キホーテの得たる吉き幸運のこと。附けたり、まさに記録するに足るその他の出来事ども

 折しも彼等はその野原にある三四十の風車の見えるところにきた。ドン・キホーテはそれらを見るやいなや、自分の家来にむかって言った。 『わしらが自分でおのれの願いを果せるよりも幸運の神が更によくわしらのために物事を整えてくれてるわい。あれ見よ、サンチョ・パンサよ、あすこには三十体以上も異形の巨人が姿を現わしおる。拙者はあの残らずと渡りあうて屠るつもりじゃ。またその分捕の品々でわれらは身代を起し初めよう。なにゆえとならこれは正義の戦いじゃ、またかような悪い族を地球の面から掃い除ける