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たとえ美しくなくても、それは―「蹴りたい背中」読書感想文

「青春」という言葉が嫌いだ。
ずっと疑問だった。SNSで「#青春」とタグを付けているクラスメイトは。私たち学生に「青春だね!」と言ってくる大人たちは。一体何をもって、私たちの今を「青春」だと言っているのだろう。
あまりに漠然とした言葉。そのくせ皆、青春に縋っている。それがなんだか癪に障るのだ。

青春とは、何なのだろう。そんな疑問を抱える中で出会ったのが、『蹴りたい背中』という本だ。私はこの本の中にその答えを少しだけ見ることができたのである。

主人公の女子高生・初実は、クラスに馴染めず孤立していた。ある日、ふとしたきっかけからクラスの男子・にな川の家に招かれる。そこで、彼はオリチャンというモデルの熱狂的ファンであることが判明。にな川と接していく中で初実は、彼が持つオリチャンへの感情の歪さを感じる。やがて、初実の中にある欲望が芽ばえた。
「にな川の背中を蹴りたい」。それは暴力的で、閃光のように眩しかった。

一見すると、シチュエーションとしてはよくあるものかもしれない。にな川は初実と同様クラスで孤立していた。そんな二人が恋愛関係に...というような話であればいくらでもあるからだ。
しかし、初実がにな川に抱いた感情に注目してほしい。

この、もの哀しく丸まった無防備な背中を蹴りたい。痛がるにな川を見たい。

作中ではそう描写されている。そう、全く甘酸っぱくないのだ。シチュエーションに対して爽やかでなさすぎる。 しかし、なぜか私はこの話を読んで、確かに「青春物語だ」と思った。

そして、この小説の「五感」の表現にも注目したい。

さびしさは鳴る。耳が痛くなるほど高く澄んだ鈴の音で鳴り響いて、胸を締めつけるから、せめて周りに聞こえないように、私はプリントを指で千切る。細長く、細長く。

冒頭にはこのような初実の心理描写がある。初実は孤独がゆえ、周りには聴こえない"孤独の音"が聞こえてしまうのだ。そしてそれを、紙をちぎってかき消す。

これを筆頭に、『蹴りたい背中』にはさまざまな「五感」の表現がある。見たものや触れたもの、感じた匂いについて、すごく丁寧に描写されているのだ。全てを「時期」という言葉で括るのは良くないが、確かに異様に繊細で、過度に何かが見えてしまう時期というのはあると思う。この五感の表現はまさに、いわゆる「思春期」特有の感覚の鋭さを描くためのものなのではなかろうか。

そして私は、『蹴りたい背中』のこれらの描写に気づかされた。そんな時期に体験した感情や感覚はきっと、もう一生感じられないかもしれないくらい特別なものだろう。青春とは、それを指すのではないだろうか。青春時代の今しか見えない、感じられないものがあるのでは。

初実がにな川の背中を蹴るシーンで、物語は終わる。二人の関係が恋人や友達と呼べるものに発展したことは終ぞ無かった。終始初実のじめじめとしたにな川への感情が渦巻くのみだ。しかし、私はそんな初実を、この物語を、紛れもなく青春だと思う。

私は自分の青春が許せなかった。青春という言葉が持つ凄まじいきらめきと、自分の今を比べるたび、緩やかに朽ちていく十代の時間が怖くてたまらなくなった。しかし、この本を読んで、救われたような気持ちになった。私の今も、青春なのかもしれない。息が詰まるようなこの日々すら、いつかきらきらと眩しく思えてくるだろうか。

「青春」という言葉が嫌いだ。私のこの薄暗く湿度の高い時間を、「青い春」なんて綺麗な言葉で表すのはやっぱりどうしても無理がある。でも、それでも今は、自分なりの青春をなんとか生きていこうと思う。

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