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2021年12月5日 直方バプテストキリスト教会主日礼拝メッセージ「低い者を高く上げ」

聖書:ミカ書4章1-4節
   ルカによる福音書1章46-55節

おはようございます。
アドヴェント第二週の主日を迎えました。イエス様の降誕に心を向ける時を私達は過しております。これは去年もお話したことなのですが、アドヴェントという言葉は、冒険を意味するアドヴェンチャーと語源を同じくする言葉です。「冒険」と「クリスマスの備え」とは何の関連があるのか、と思われるかもしれません。冒険というのは「まだ見ない世界に向かってワクワクしながら進み出す、出て行く」という感じですし、クリスマスの備えというと「ロウソクに火を灯して心静かに待っている」というイメージを持たれるのではないでしょうか。

先日Twitterを見ていましたらこんな投稿があっていました。

「昨日の夜『まだ食器洗ってないけど眠い…』とぐずぐずしてたら夫が『きっと小人さんが洗ってくれるから寝なよ😀』と言ってくれたから寝て起きたら食器そのままで、お前小人じゃなかったんかーい!ってなった」

これを見て大笑いしたのですが、洗い物は誰かが小人さんになってくれなければそのままなのです。誰もしてくれない。「もう幾つ寝るとお正月♪」とかいう歌がありますが、そんなふうに歌えるのは子どもだけ、大人はその前にはいろんな準備をするでしょ?実際、このアドヴェントに入る前、教会では掃除をして飾り付けをして、ってバタバタしていましたよね。どんなクリスマス礼拝にするか、キャンドルサービスにするか計画を立てますよね。そして勿論みなさんだって「誰を誘おうかな」なんて準備しているでしょ?イエス様を迎える準備というのは、バタバタするしワクワクするし、ジッとなんてしていられないのです。ジッとしているのはこの時間だけです。あれと同じです。でも、私達はイエス様の誕生が嬉しいからワクワクしながら準備をするのです。ワクワクしながら前に進む、冒険と同じです。アドヴェントアドヴェンチャー、非常に積極的な事柄、前のめりな事柄です。

ところがです。世界で最初のクリスマスの前には、ドキドキはありましたがワクワクはありませんでした。先週もお話しましたように、マリアとヨセフという婚約中の二人の間に結婚前に子どもが出来てしまうのです。それもヨセフとの間の子ではない、という周りから見ると非常にスキャンダラスな出来事。今日のルカによる福音書ではマリアのところに天使がやって来てこう言っています、「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることはない」。天使は「あなたは妊娠して男の子を生む。その子はすごい人になるんだよ」って言うんですね。ところがマリアは言うのです、「どうしてそんなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに」。この「どうしてそんなことがありえましょうか」という言葉は、きっと「そんな事、あってもらっては困ります!」という意味だったのではないか、とわたしは思います。「いや天使さん、すごい人になると言われても私にはピンと来ません。わたしはそんな大きな事を望みません。ヨセフさんと結婚して小さな幸せを願っているのです。第一、結婚もしていないのに子どもなんて、とんでもありませんよ。困ります!」って言うのです。マリアはもしかしたら全てを失うかもしれない、ヨセフからも離縁状を渡され、周りからも白い目で見られるかもしれません。

でも天使はいうのです「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む」って。これはつまり「神様があなたを守る」って。あなたは神様から見られ、伴われ、守られている。そうやって、そのあなたの弱さに伴う方こそが神であり、そしてそのような生き方を神は望まれるのだ、って天使は言うのです。神は共におられる、あなたの弱さも嘆きも、同じ高さで知っておられる。だから神が与えられた命として、同じく神が与えた命と共に生きるのだ、って天使は語るのです。

マリアが求めたのは小さな幸せでした。でもその「小さな幸せ」が守られるには、大きな力が必要なのだと思います。この国にいて思うのですが、この国はその「小さな幸せ」が大切にされない国だと思ってしまいます。

随分前のことですが、麻生太郎さんが総理大臣の時、国会である質問がなされました「総理、カップラーメンが一個幾らで売られているか知っていますか?」という質問に対して「400円くらししますか?」って答えていました。400円もするカップラーメンなんて買いませんよ。わたしは150円のカップラーメンにも躊躇します。それだけ、庶民の生活とかけ離れている首相、庶民の生活に興味を持っていない首相だということがばれてしまったエピソードです。だから私達の生活はいつまでたっても不安なのです。大きなお金を動かすことばかり考えているから、このコロナの中で何とか生きている人の小さな生活、小さな営み、小さな幸せに支援をすることが疎かになるのです。自分の身を低くしなければ小さな命に向き合うことは出来ないのです。一緒に生きることはできないのです。

天使は言います。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む」。神は上からあなたを見下ろすのではなく、直接あなたの元に降られ、あなたを包む、守る、って言うのです。人々があなたを裁いても、わたしはあなたを愛する。わたしはこの神の大きな愛に包まれようとするマリアの姿と、お母さんの大きな愛に包まれるお腹の赤ちゃんの姿が重なります。そしてマリアは、神様が自分の高さに降り守って下さる、「共に生きる」神であることを知り、わたしも共に生きる者となる、という決断をします。「神は私を知って下さっている。神は私の弱さに目を留めて下さっている。神は共におられる」と知り、「生きてみよう。神と共に、命と共に生きてみよう」と決断するのです。

そして、少し間は空きますが、マリアは神を賛美するのです。それが今日の聖書の箇所です。「マリアの賛歌」と呼ばれる箇所です。もう一度読みます。

「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださったからです。今から後、いつの世の人もわたしを幸いな者と言うでしょう、力ある方が、わたしに偉大なことをなさいましたから。その御名は尊く、その憐れみは代々に限りなく、主を畏れる者に及びます。主はその腕で力を振るい、思い上がる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ、飢えた人を良い物で満たし、富める者を空腹のまま追い返されます。その僕イスラエルを受け入れて、憐れみをお忘れになりません。わたしたちの祖先におっしゃったとおり、アブラハムとその子孫に対してとこしえに。」

マリアの信仰告白です。「神様、あなたはこのような方です。わたしはそのあなたを信じます。」という言葉が語られています。マリアは言います「主はその腕で力を振るい、思い上がる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ、飢えた人を良い物で満たし、富める者を空腹のまま追い返されます。」私の神様はこの世とは真逆の神なのだ、とマリアは告白しています。「高い者を降ろし、低い者を高く上げ」。これは何かというと、以前にも言いましたが、平らになるということです。神の前にあっては、人の命は等しく尊いのだ、だから高いところにのし上がった者も低いところに落とされた者も同じ高さになるのです。平らな世になる、それが平和です。誰もが食べることに困ることなく、誰もが生きる事が出来る。虐げられる事なく、命を脅かされる事もない。これはマリアにとって切実です。正に自分の事柄です。何故ならこの新しい命を受け入れるということは命を脅かされる恐れが多分にあるからです。この神の業が起こされることを誰よりも願っているマリアだからです。そして、この神の業の起こるためにまず自分から進み出したのもまたマリアでした。この命と共に歩むことこそが神の平和の実現だと信じたからです。

それは信仰の原点です。私達は神を信じる、という時に心の中で信じるということを考えるのですが、実はそこはスタート地点に過ぎません。大切なのはそこから歩み出す、ということです。信じる歩みをするということです。マリアは、神は低い者を高く引き上げて下さる方だ、と心で信じます。そしてどうしたか、イエスと共に歩み出したのです。大切なのはそこです。待つのではなく、進み出す。共におられる神と共に命と共に歩み出す。この先に平和があると信じて進むのです。アドヴェントと同じですね。神と共に、命と共に生きる、そこに神の業は起こされてゆくのです。

マリアはそのように進んでゆきました。その先にイエス様の誕生があります。そしてイエス様によってなされた業が、低い者が高く上げられた出来事でありました。虐げられた者、罪人と呼ばれた者、病を抱えた者、命を脅かされた者、罪に悩む者、そんな立場を低くされた者や自らの命を価値を低くした者と同じ高さに立たれ、共に歩む中で引き上げられました。平和への道を歩まれた方です。神に包まれたマリア、そのマリアによって包まれたイエス様。小さな命として生まれるイエス様を母マリアは包みます。その母マリアも社会的には小さな命。しかし、その命に神は降られ、マリアを大きな愛でまるごと包む神様。マリアの弱さも不安も悲しみもしる神に守られて歩み出すマリア。その姿とイエス様は重なります。イエス様は確かにマリアの子です。

今日はもう一箇所、聖書を読んで頂きました。ミカ書4章1節から。

「終りの日に、主の神殿の山は、山々の頭として堅く立ち、どの峰よりも高くそびえる。もろもろの民は大河のようにそこに向かい、多くの国々が来て言う。『主の山に登り、ヤコブの神の家に行こう。主はわたしたちに道を示される。わたしたちはその道を進もう』と。主の教えはシオンから、御言葉はエルサレムから出る。主は多くの民の争いを裁き、はるか遠くまでも、強い国々を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない。人はそれぞれ自分のぶどうの木の下、いちじくの木の下に座り、脅かすものは何もないと万軍の主の口が語られた。」

この言葉は戦争に明け暮れたイスラエルがもう絶望的な状況の中でミカという人が神の言葉を告げた言葉です。「戦いばかりして、そしてボロボロの私達の国。今は絶望的な時代だ。でも、やがて戦うことの愚かさに気づき、命の神に向かう時が来る。その時、終りの時は今なんじゃないか?神に立ち帰り、神に向かう時は今なんじゃないか?私達は信じてその道を進もうじゃないか。外国と戦う事よりも、まず私達が神に向かい、命に向き合かおうよ。殺す事よりも生きる事に一生懸命になろうよ。そうしたらさ、その歩みに多くの人も、多くの国も連なって歩み出すんじゃないかな?この世とは真逆な神の愛に生きようよ。そうしたら、神様の出来事は起こされてゆくよ。大切なのはあなたが信じ、あなたが進み出すことだよ」と語るのです。

これは小さな者が小さなままで生きてゆく社会の姿です。戦争というのは武器を持って身の丈よりも大きく見せて相手を倒そうとする行為です。何故なら戦争は正しい者が勝つのではなく、大きい者、強い者が勝つ事だからです。自分が強くなるために武器を持つ。でも神様が望まれるのはその小ささのままで、生きる事、生かす事です。「剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする」とはそういうことです。

これは祈祷会でもお話ししたことですがここには矛盾した言葉があります。神の神殿は「どの峰よりも高くそびえる」のにそこに「大河のようにそこに向かい」という表現です。川は低いところに向かって流れます。山である神殿に川のように集まることはあり得ません。山に向かって流れて川などありません。これは矛盾を意図した表現です。そしてそれは「逆転」が起こるという事です。それはマリアの賛歌の「主はその腕で力を振るい、思い上がる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ、飢えた人を良い物で満たし、富める者を空腹のまま追い返されます。」という言葉のように、やがて平らかなる世界が来る。平和な世界が来る。「剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする」そんな時が来る。そう語っています。その平和の到来として私達はイエス・キリストをお迎えするのです。

マリアが信じて進み出した先にイエス様の誕生がありました。私達もまた信じて進み出しましょう。クリスマスに向かって、共に歩み出してゆきましょう。そして、神は命と共にあることを示して下さった、神は低い者を高めて下さる方だと示して下さったイエス様の誕生、クリスマスに向かって進んでゆきましょう。今はアドヴェント、その時です。

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