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2021年11月21日 直方バプテストキリスト教会主日礼拝メッセージ「いのちにつながれ」

詩編147編8-11節「8 主は天を雲で覆い、大地のために雨を備え、山々に草を芽生えさせられる。9 獣や、烏のたぐいが求めて鳴けば、食べ物をお与えになる。10 主は馬の勇ましさをよろこばれるのでもなく、人の足の速さを望まれるのでもない。11 主が望まれるのは主を畏れる人、主の慈しみを待ち望む人。」

おはようございます。今、読んで頂きました言葉、わたしは最初の一行「主は天を雲で覆い、大地のために雨を備え」という表現がとても素敵だなと思いました。雲は雨を蓄える。それは大地に恵みの雨を降らそうとする準備だ、というのです。詩編なのですから「詩」なのですが、非常に豊かな表現です。そしてこの一行が今日の聖書の箇所を全て表しているように思うのです。生えたらその場所で生きるしかない植物。あっちに雨が降っているからと行って移動することも出来ない植物。でも、神様はその植物に恵みの雨を与えて生かすのです。この雨という言葉は広い範囲で降るものです。ですからこれは神様の恵みが広く行き渡る、もしくは一緒に生きるために与えられる恵み、分かち合って生きる恵みの象徴です。イエス様が「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」(マタイ5:45)と言われたのは、神様が全ての人を愛している事を語ると恵みによって共に一緒に生きよ、と言われたのです。また、9節に「烏」という言葉が出てきていますが、これは厳密には「(親をなくした)小がらす」のことです。そして「烏」は聖書の中では嫌われている鳥でもあります。でも神様はそんな烏や獣さえも求めたら食べ物を与えられます。これは個別の恵みです。貧しい者、弱い者、小さくされた者に対して神様のまなざしは特別に注がれます。それは神様が全ての人を愛しているが故に、弱い者がいきてゆくためにはより細やかな愛情が必要だからです。

これは蛇足ですが、以前いた教会にあった幼稚園で園長をしていた私は職員にも保護者にも「この幼稚園はえこひいきする幼稚園です」と言いました。例えば、こんな事がありました。お母さんが精神的に参ってしまって、子どもを連れてくる事が出来ない。それで「今日はうちの子、幼稚園休ませます」という連絡が来たら、「お子さんは元気なんでしょ?そしたらお母さん、保育の時間だけでもひとりで休まれて下さい。迎えに行きますから」って言いました。「お弁当とか用意してないんですけど」「お弁当くらい、なんとかします。今から行きますからね」と言ってこちらから家まで車で迎えに行ったことがあります。そんなこと、よくありました。全ての子を大切にするためには、時に一つのご家庭にえこひいきするくらい必要な手当をするということです。それは神様の愛が弱さの中に働かれるような、弱さと共に歩む事を望まれる神様だからです。そんなことを他の保護者も喜んで下さいました。なぜなら、うちが困った時もきっと幼稚園は支えてくれる、と思って下さったからです。

さて、植物と動物の事を譬えにこの詩編は神様の愛と自然の調和を語っていますが、自然というのは非常によくできている。調和が取れています。自然の調和、神様の秩序の中で地球は回っています。そして多分、地球上で人間が一番神様の秩序、自然の調和の邪魔をしているのだろうと思います。自然破壊、ゴミ問題、そして戦争。この戦争が一番地球を汚しているのかも知れませんし、神様を悲しませているかもしれません。なぜなら命は神様から与えられているのにその命を失わせているからです。原爆なんて命を奪い、環境を破壊する最たるものです。それは神様の備えている、準備している恵みで満足しない人間の姿です。

「起きて半畳、寝て一畳」という言葉があります。この広い大地の中で人間ひとりが占める広さは起きれば畳半畳分で事足り、寝ても一畳で済む。天下を取ったって食べる食事は一日二合半もあれば十分。そういう意味です。人間なんてその程度です。だから、本当は神様が与えようとしている恵みを受け取ろうとすれば生きて行けるのです。でも人はその「天下」を取りたがる。広い場所を欲しがる。

藤永茂さんという方が書かれた「アメリカ・インディアン悲史」という本があります。この本にはヨーロッパから新天地を求めてアメリカ大陸に渡ったクリスチャンを中心とする移民たちの姿が書かれていますが、上陸をアメリカ先住民は歓迎します。そして最初の冬に凍える中で手を差し伸べたのも先住民でした。また、農業について教えたのもそうです。そしてたばこ栽培についても教えます。先住民は、土地は水や空気と同じように人が所有する者ではないと考えていたので、大陸から渡ってきた人たちがたばこの栽培することも認めておりましたが、それが拡大することを不思議に思います。「自分の分だけ作ればいいのに」と。しかし、それを産業として更に土地を広げる中で、先住民は泣く泣く一緒に住んでいた土地を追われた、と書かれています。そうやって先住民の住む場所とは減らされ、保護地区という囲いの中で住むことになってしまいます。昔の西部劇のなかでインディアンの襲撃に対して立ち向かう、という図式がよくありますが、なぜ襲撃するか、それは自分たちの住む場所を奪われていたからです。日本バプテスト連盟でこれまで新しい場所で伝道することを「開拓伝道」と言っていましたが、今ではあまり使われません。それはアメリカの「西部開拓」が侵略の歴史であるように、日本でも同じように北海道が開拓という言葉のもとにアイヌの人たちをアメリカ先住民と同じように追いやった歴史があるからです。土地を奪っていった。それが「開拓」だからです。

「起きて半畳、寝て一畳」人間なんてたかがそれくらいのもの。アメリカ先住民がたばこ栽培について「自分たちの分だけ作ればいいのに」と思ったのは、恵みによって生きる、という姿の実践だったのだと思います。キリスト教を知らないアメリカ先住民は神様から喜ばれる生き方をしています。しかし、ヨーロッパからやって来たクリスチャン達は「開拓」の名の下に自分の人の土地を奪い、人の人生を奪い、糧も奪う。そんな姿は神様から決して喜ばれるものではありません。その奪うという行為が戦争の根本にはあります。「領土問題」です。アメリカの開拓、北海道の開拓、ロシアとの北方領土問題、韓国との竹島問題、中国との尖閣諸島問題。自分の土地を広げよう、資源を確保しよう。プライドをかけて自分の国の土地を広げようとするより豊かになろうとするために争いが起こっています。

大きくなろう、豊かになろう、そうすることで神様が与えようと準備している恵みはとても小さなものになってしまいます。そして競争や争いに勝つことばかり考えるようになってしまいます。そして、神様の恵みによって生きようとする人たちや競争を嫌う者、争いに負けた者、立場的に弱い者、身体に弱さを覚える者はどんどん置いて行かれ、自分たちに与えられるはずの恵みまで奪われて行くのです。

で、今日の詩編の作者は言うのです「主は馬の勇ましさを喜ばれるのでもなく、人の足の速さを望まれるのでもない」。「馬」というのは「騎兵」と「戦車」のことで古代においては最強の兵器でした。今で言えば戦闘機や戦車、ミサイル、そして原爆みたいなものです。「そんな最強の武器があるからといってなんだ」と聖書は言うのです。「わたしがみんなで生きるように蓄えて与えた恵みで生きずにあなたがたは何やっているの?」」って神様は言われるのです。それは「物」だけではなく一人ひとりの姿もそうです。「足の速さ」なんて人それぞれです。確かに速い人はいます。でも神様は「それってわたしが与えた物でしょ?なんで誇るの?」って言われるのです。だから何?人に勝っても私は喜ばないよ」って言われるというのです。そうですよね。あげたもので誇られてもねえ。それで戦ったり奪ったりしたら神様は喜ばれるはずはありません。「争うこと」「勝つこと」「奪うこと」「拡大すること」それは神様の望まれる姿ではない、とキッパリ聖書はいうのです。

じゃあ神様は何を喜ばれるのか。それは最後の11節「主が望まれるのは主を畏れる人、主の慈しみを待ち望む人」とあります。「畏れる」という言葉は「恐怖」という意味ではありません。大きなものを目の前にして、自分の小ささを感じる、ということです。それも「主」つまり「神様を畏れる」というのです。「神は愛です」という言葉がありますが、正に神様の愛の大きさの前に敵いません、と思うことです。いや、デカすぎるでしょう。だって神様の愛って全ての人に向けられているのですから。礼拝で祈る主の祈りで「我らに罪を犯す者を我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ」ってありますよね。赦せませんよね。でもね、この祈りは主の祈りです。イエス様が先立って祈られた祈り。だからこの「我ら」にはイエス様が含まれている。「あなたはあの人を赦せないかもしれない。でも私が赦すから、だから大丈夫。あなたは赦せない自分は駄目だ、なんて思わなくて良い。いや、そんな駄目だと思うあなたをも私は赦すよ」って祈りです。そしたら、「ああ、私も赦されているんだ、じゃあちょっと私も赦すように努力してみようかな、って感じになってきませんか。こんな私が愛されている、有り難いなぁ。そして私が赦せないあの人さえ」って思ったら神様の愛の大きさを感じませんか。参りました。って思いますし、そこからあの人との一緒に生きてみようかな、と思うかも知れない。それくらい神様の愛って大きい、ということです。

そして「主の慈しみを待ち望む人」。これは正に「親を失った小がらす」であり、恵みを必要とする小さくされた人のことです。それは小さくされた者を守るということであり、イエス様のお話で言えばルカ15章にある「迷子になった一匹の羊を九十九匹を野原に老いてでも探しに行く」ということであり、イエス様の誕生の事で言えば、ルカ2章にある、「人口調査の対象から外され、野原でいつものように夜中に羊の群れの番をする羊飼いに良い知らせを伝えること」でもありです。その慈しみ、一つの失われそうな命に目に思いを注ぎ、近づき伴われる神様を求めるということです。

私は子どもの頃、友達とよくこんな遊びをしました。数人集まって、ひとりの人が屋根の上にボールを投げて、友達の名前を言う。名前を言われた子はボールを取る。取ったら、また人の名前を言ってボールを投げる。そういう繰り返しです。屋根の上は見えませんから、ボールはどこに落ちてくるか分りません。だから名前を言われた人は、上を見てどこからボールが落ちてくるかを注意深く準備します。手を上に上げてボールを取れるようにするのです。神様の恵みも同じです。私達が「待ち望む」というとき、その準備が必要です。準備がなければ通り過ぎ、落ちてしまいます。無駄になってしまいます。

今日の聖書の箇所は雨というどこに落ちてくるか分らないものから始まり、主の慈しみを待ち望むという言葉で終わっている。これは正に、あなたに与えられる神様の恵みを無駄にするなよ、という事なのではないでしょうか。神様は私達一人ひとりを愛して下さっています。名前を呼んで与えて下さっています。あなたのためにイエスを遣わしたのだ、って。あなたの罪を赦すためにイエスを与えたのだ、って。その畏れるべき神様の大きな恵みを受け取るものでありたいと思います。

最後に。私達はその恵みを分かち合う者でもあります。受け取った恵みを分かち合う群れ、それが教会です。神様を信じるということは、受け取る側から分かち合う側になるということです。それがクリスチャンになるということです。それは単に精神的な事に止まりません。勿論、私達がイエス様を伝えるということは大きな恵みの分かち合いです。しかし、それだけではなく、今、この世の中には平和を求めて苦しんでいる人がいます。貧しさの中で生きる事を求めて苦しんでいる人もいます。本当は一人ひとりに与えられるはずの恵みが「争い」や「拡大」によって奪われている人たちです。そんな人たちに教会には何が出来るでしょう。私達の教会では、どうぞご自由にナプキンをお取り下さい、という取り組みをしています。先週は13袋ワゴンから持って行って頂けました。牧師は毎日平日、行き交う中高生にイーゼルにひと言を掲げています。もう自分から受け取りに行く力のない人に生きる力を手渡ししたり、どこに助けを求めたら良いか分らない中で教会の前に助けがあることで乗り切ろうと思えたり、教会はそんな場所だよ、って少しは伝えられているかな、って思うんです。与えられた恵みを分かち合う、いのちがいのちにつながっていく、そういう中で希望って生まれていくのだと思います。教会にはまだまだ可能性があります。

8節の「主は天を雲で覆い、大地のために雨を備え」神様は与えようとして備えている。与えたくてうずうずされ、つながりたくて我慢できなくてイエス様を与えて下さった。そのいのちであるイエス様につながる者として、恵みを与えられた者として、そしてイエス様の後を歩む者として、分かち合う者として「してあげる」ということではなく、「いのちとつながる」者として歩んで行きたいと思います。

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