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才能と環境とあれこれ

20代なかば、インターネットに接続しながら生きていると、自分と同じくらいの年齢、あるいは自分より下の年齢で活躍している人たちが目に入ってくるようになります。いままではテレビの中にいる人たちのほとんどが年上で、自分も数年後にはこれくらい評価される人になっているんじゃないかって、すこしだけ可能性を感じながら過ごしていました。だけれど自分は、小学生のころから薄々気づいていたとおり、普通にサラリーマンになって平々凡々な人生を送っているわけです。

ふわふわとこんなことを考えていると、世の中やっぱり運ゲーなんだな、と思います。ぼくは周りの人よりも勉強ができて、そこそこの学校そこそこの会社に入れたんですが、同僚からは親がどこかの地主だとか、家の地下に音楽室があるだとか、そういうことをたくさん聞きます。中学校の友だちは高校を卒業して知り合いだらけの職場に就職しているというのに、同僚は当たり前のように大学に行って当たり前のように留学し、当たり前のように大企業に入ってきます。こういった家庭環境みたいなものは、その人が生まれ持った能力を伸ばすことができるんですよね。

そんな状態の社会では、普通の家庭環境で育った賢い人たちは「自分がエリート家庭に生まれていたらもっと成功したんだろうな」みたいなことを考えてしまうわけですよね。勉強できる環境、尊敬できる家族や友人、そういったものがあれば…と夢見てしまいがちです。だけど、いまこの時点で優秀であるからには、たとえば生まれつきIQが高かっただとか、生まれつき勉強が好きだったとか、そういう要素があるわけです。それもまた、家庭環境と同じで運ゲーです。

世の中、僕たちが想像している以上に遺伝の要素がでかいです。形質によって変わりますが、能力の半分くらいが遺伝で、もう半分くらいが環境です。となると、僕たちの能力値はどうしたって運ゲーなんですよね。ポケモンでいうと、種族値・努力値ともに運ゲーという感じ。頑張ってるのにできないこととか、頑張ってないのにできちゃうこと、頑張ることが苦じゃないこと、諸々ひっくるめて自分では選べない要素の方がでかいってことなんで、「頑張ってもできない」と落ち込むこと自体が不毛だったりするんですよね。同時に「お前は頑張っていないからできないんだ!」というのは頑張る才能がある人だからこそ言える言葉で、鳥が人間に「なにしてんの?空飛べば?」と言ってるのと同じ…と思えるわけです。

冒頭の話に戻りますが、最近だとテレビよりかはYoutubeをはじめとしたSNSで評価される時代がきてますよね。しかし彼らはテレビ能力があるわけではなく(テレビ能力がある人もいますが)、Youtube能力があるため評価されているんだろうな、と思います。スポーツの世界でも、人間が作った競技のルールに最もマッチした人が活躍します。競技ごとにトレーニングの方法が違い、適した才能も違います。ウサインボルトと羽生結弦は、どちらがより優れているんですかね?そんな問いこそ不毛です。

家庭環境も運ゲー、才能も運ゲー、社会も運ゲー。そんな世界です。これでも家柄や性別、人種による差別が減ってきている分、多少はマシになったんですかね?
しかしそれらの差別を無くしたときに生まれてくるのは平等ではなく、遺伝ゲーによる能力差別でしょう。

ぼくたち社会的評価が高くない人間は、こういった考えを持っていると割と楽に生きることができそうです。自分の才能と社会の需要がたまたまマッチしていないだけ。いつかマッチするかもしれないし、しないかもしれない。認められるような努力ができないとしてもしょうがない。向いてないから。

最近はこんな感じの考えで生きております。できないことはできないけど、できるようになるためにそれなりに頑張る。才能とか努力度とかで悲観するのは意味がないので避ける。そう考えた方が幸せになれるような気がします。まあ、幸せになれるかどうかも遺伝ゲーなんですけどね。とはいえ、運良くこの考え方が腑に落ちて、運良く自分のなかの不安を拭えたなら、遺伝以外のもう半分の要素は、少しだけ勝ち側に寄るんじゃないでしょうかね。

自分を今よりもうちょっと幸せにしてくれる、いつか訪れる(かもしれない)なにかをだらだら待ちながら、適当に頑張って生きていこうと思います。

あーあ、ニューヨーク・ヤンキース。間違って俺と契約しねぇかなぁ。

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