"自分がどういう人間であるか"感が大事っぽい

いまさらなお話ではありますが、"自分はどういう人間であるか" みたいな感覚は人の言動を左右する大きな要素であろうと思います。この文章は終始ぼく個人の感想であるので、その辺りをご認識いただいて読み進めてもらえればと思います。

最初に。
人間には誰かの真似をすることで得られる自己像に対する喜びみたいなものがあって、それを意識することでいろいろなものが見えてくるのではないか、と思っています。

近ごろ真似される対象はおもにインフルエンサーで、InstagramをはじめとしたSNSで活躍する方々です。インフルエンサーをみた人たちは ”こんな風になりたい” と願い、彼ら彼女らと同じような服装で同じような店に行き同じような写真を撮ります。子どもが仮面ライダーやプリキュアの変身を真似たりしていることからも、自分がよいと思うものと同じように振る舞うことは人間の本能的な欲求であるような気がいたします。

毎度おなじみ進化の過程に立ち返って考えてみると、マンモスを倒せる人に憧れてやり方を真似ることで、自分自身もマンモスを倒せるようになり、子孫を残せるようになった…ことが、ぼくたちにその能力が備わった理由なのではないかと思います。学ぶの語源は真似るである、とはよく言われておりますからね。より良い存在になるためには人の真似をすることが大切です。

しかし真似るのは特定の人のみにあらず。TikTokでは発端のわからない流行のようなものがあって、それを見た人が真似をしてムーブメントが起きる文化があるとなにかで読みました。TikTokを利用しないので詳しくはわからないのですが、誰かの真似っこリレーが続いて全体の文化が形成されていくもの(ただし、制作者にオリジナリティがない訳ではない)と認識しています。

これは、素敵な人そのものになりたい欲と同時に、集団に属したい欲もあるからこその流れなのかなーと思っています。人間は単体では弱い生き物なので、どこかしらの集団にいないと死んでしまいます。よりよい集まりに入って、より良い成果を出す。それもまた根源的な欲求のひとつであろうと思います。いい会社に入りたいと願うこともそのうちのひとつですね。信頼できる仲間がいると同時に、その素晴らしい集団に属している自分自身が価値になります。

以上のことから、自分はこういう人間であるという認識は大抵の人には必要で、その像が良いもの、良い集団に属しているものであってほしいと望んでいるっぽい、というのは間違った感覚ではなさそうです。

さて。

自分はこういう人間だ!という認識が実際のものとずれてくると、実力が伴っていないのに「自分はもっとできる人間だ!」と思っちゃう、みたいなことが起こります。(実際にはそうではないのに)本気を出せばできると本気で思っている人、いまよりも素敵な本当の自分が見つかっていないと思っている人、そんな人たちが出てくるのも理解できそうです。

この現象を別の例に当てはめてみると「自分は女性でありたいのに、生物学的には男性」も全然ありえるわけですよね。性の自認が実際のものと違っていたり、恋愛対象が一般的な人たちと異なるのもおかしなことではなさそうです。

余談ですが、少し前に読んだジェンダー学の書籍で以下のような記載がありました。

子どもの世話は母親が行うことが多いことから、女性の性自認は「もっとも身近な人と同じ性」として育つことに対し、男性の性自認は「もっとも身近な人とは異なる性」として育ち、模範例のない男性の性自認の方がより安定しないため、男性→女性のトランスが相対的に多い。

生物学的に男性の人は真似っこできる存在が近くにいる割合が低いため、性に対する認識がばらつきやすいということなのでしょうね。教えてもらっていないことをしなきゃいけない感じ。

またまた余談ですが、同書には「男性の性欲が強いこともこの社会に起因している可能性があるかも」という旨の記載もありました。男性の方が性欲が強いもの、女性は性への関心が薄いほうがよし。処女は善で童貞は悪。我々はそんな価値観の社会で育っていくことで、自分は男性/女性だから性欲が強い/弱いのだと信じてしまい、同時に自分自身の性自認を守らねばならないので、実際にそのように振る舞い、事実そうなってしまう可能性が高い…と考えると納得できるような気がします。


冒頭で書いたように、自分自身をどういう人間と認識しているかは個人の言動を決める重要なファクターになりそうです。

ぼくはというと、あらゆる場面で世間に流されない人でありたい(と考えてること自体が典型パターンのような気はしますが)と思っています。まわりがどんな風に見ていようが、自分がより良いと思ったものを選ぶように心がけておりますし、感覚的な部分もそちらに寄っていっております。流行っていても好みでないものは追いかけないし、異性との純粋な友だち関係も全然あると思っています。せっかく物事を考えられる生き物として生まれたなら、常識みたいなものをそのまま踏襲した判断は視野が狭くてもったいないような気がしちゃいますよね。アホなのでいろいろと間違ってそうな気もしますが、そんな人になりたいと思って生きています。いや、マジで人に嫌われるタイプ。


世の中にある洗脳はアイデンティティ(正しくはないですが、わかりやすいのでこの言葉を使います)を壊すことから始めるそうです。自分自身や自分の信じているものに価値がないと繰り返し主張され、頼るものがなくなってしまった人に対して新たな価値観を与える…という流れです。
どこの国だったか忘れましたが、戦時中、敵対している国の兵士を寝返らせようとするときは自国に向けた悪口を言わせていたそうです。兵士ははじめ自分の国を信じているわけですが、その国の悪い面を認めさせられ、かつ自ら声に出して発することで、本当に嫌いになっていくようです。こちらも同じくアイデンティティの崩壊とセットで洗脳が行われていますね。


漫画「推しの子」をきっかけに知りましたが、いわゆるリアリティショー番組の出演者には自殺が多いそうで、専用のメンタルケアをおこなう場合があるそうです。あえてヒールを演じていれば問題ないのですが、素の自分が社会で認められず誹謗中傷を受けてしまうと、世の中を生きることのできるキャラクターがいなくなってしまいますもんね。なので、これは単純に「傷つく、つらい、死のう」というだけのお話ではなさそうです。


真似をすること、所属すること、自己を認識すること、いくつか例をあげて考えてみましたが "自分はこんな人間である" 感と、それが認められるような環境は、人が生きていく上では必須なのだろうと思います。ということを踏まえて生きてれば、傷つく人を減らせて、救える人は増えるんじゃないかと思います。自戒です。

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