死ぬこと

子どもの頃からずっと死について考えておりました。死んだら自分の意識はどうなるのか、死後の世界みたいなものが存在するのか、みたいな割と普遍的な考えごとです。

その頃、祖母が信仰していた宗教のビデオを見ることがときどきありました。そのビデオでは、肉体の死のあとは魂のようなものが残り、また別の肉体へと移るとされていました。いわゆる輪廻転生というやつですかね。教祖は仮死状態を経験したためにこれらの仕組みを知っているのだ、みたいなことを語っていたと記憶しています。

いろいろ調べていると、世界にはさまざまな死生観があります。輪廻転生をはじめ、最後の日に復活して審判を受けるパターンや、死んだ瞬間に天国や地獄に行くパターン、魂的なものは空の上に飛んでいったり、ぼくたちの身の回りをうろついていたり。死のあとの段階として、成仏する、みたいな考え方もありますね。

さて。
そんなストーリーで溢れている世の中ですが、いまは科学の時代です。現代では我々の意識は脳に宿るとされているので、死ぬことによって意識はなくなり、魂のようなものは存在しないと考えるのが妥当だと思います。死後に魂のような存在になるとしても、その状態では脳を持たないわけですから、自分を意識する術はありません。身体がないので五感もなく、光も音も認識することはできません。

魂になった自分の記憶を持っているという人がいたとしても、夢や幻覚のようなものである確率がとても高いと言えます。生きている人間の脳には、それらを作り出す能力があることがわかっていますからね。

こんな風に現代科学で明らかになっているものを並べてみると、ぼくたちには死後の世界というものは存在しなさそう、という結論に至ります。目であれば光という電磁波のインプット、耳であれば音圧による鼓膜の振動というインプット、それらを電気信号に変換して脳に送り届け、脳内でもまた、化学物質によって生まれた電圧をもとに電流を流して思考しています。死後はなにも見えない真っ暗な世界ですらないわけです。そんなことを考えることのできる脳が動いていませんからね。(しかしこれはただの悪魔の証明で、もしかしたらぼくたちがまだ知らない謎の力とかがあるかもしれない…ということは一応書いておきます。)

知覚できないということは、当たり前ですが現実世界の一切から解放されます。痛くないし苦しくないし、悲しくも恥ずかしくもない。プラマイゼロです。なんとなく、死はマイナスであるかのように感じてしまいますが、プラスの人生を送っている人からみて相対的にマイナスであるだけなんですね。

プラマイゼロであるが故に、自殺を選ぶことが合理的な選択となる場面は存在しそうです。極端なお話ですが、ぼくがあと1時間で悪い人たちに捕まって一生拷問を受け続けると決まっているなら、それまでに遺言をかいてビルから飛び降りようとすると思います。これから確実にマイナスの人生というのなら、せめて相対的にプラスであるゼロを目指した方がいいですからね。

しかし実際には未来なんて不確実で、ぼくが飛び降りた瞬間に悪い人たちが捕まったことを知り「ああ、死ななくてよかったじゃん」と思いながら落下することもあるわけです。で、実際に世界中で発生している自殺はこのパターンが多いんですよね。運良く誰かに止められ自殺未遂となった人たちは「あの時は狂っていた」と振り返ることが多いといいます。自殺衝動は一過性のものですから、どうしても死にたくなったときは、とりあえずちょっと待った方がよさげです。そんな状況で自分を見つめ直せるかはわかりませんが、このことはとりあえず頭に叩き込んどいてください。


ぼくはいまのところ死ぬ気はないですし、120歳くらいまで生きるつもりでいます。それくらいまで生きれば、いまの時代にはできない経験に巡り会えそうだからです。シンギュラリティもとっくに過ぎて、例えば宇宙に行けたり、ドラえもんに会えたりするかもしれません。長生きすることで、それだけ楽しいことが起こるチャンスが増えると思っています。

しかし、もっと長く生きろと言われればそれはそれで嫌なわけです。どこかで飽きたり、孤独になったり、マイナスがプラスを打ち消す瞬間が必ず来ると思っています。(この辺りは菅原そうたさんの「5億年ボタン」という作品がうまく表してくれているので、時間がある方は見てみてください)

つまるところぼくたちは、ほどほどに生きたいわけです。死にたくないのに生きたくない。ここまで日曜を待ち望んでいるのに、毎日が日曜だったらそのうち絶望してしまう。そんな欲張りな生き物です。人生には終わりがあるから楽しめるというものですね。時間が限られているからこそ、そのなかで精一杯生きたいものです。

死後には意識がなく、良いも悪いもないですから、自分の人生が終わった後のことを考えても仕方がないですね。ぼくたちが考えるべきは、自分が死ぬ瞬間まで、死をどう捉え人生をどう生きるかです。

そのために、つぎは周りの人間の人生が終わった時のことに目を向けてみます。

小学生のころ、仲の良かった友だちを亡くしました。これだけ見るとありきたりなエピソードではありますが、ぼくにとっては大きな出来事です。それでも割と早く立ち直れたのは、ぼくがサイコパス気質であること以外にも理由があると気づきました。

誰かが亡くなったときの悲しみを増幅させるのは、それまでの接し方に対する後悔だと考えています。だから「母親とケンカして家を飛び出した日に、事故で帰らぬ人になってしまった」みたいな物語はぼくたちの心をひどく痛ませます。そういった状況を防ぐためには、いつだれが死んでも後悔せずにいられるような日々を送ることが大切なんだろうと思いました。

亡くなった友だちは保健室で過ごしがちだったので、プリントを持っていく役を買って出たり、休み時間に遊びに行ったりしていました。あくまで自己満足の世界ではありますが、自分にできることをしていたと思います。そのおかげで後悔が少なかったんじゃないかな、と思うのです。もっとこうしておけばよかったとか思っちゃったら、反芻してしばらく引きずりますからね。周りの人とは絶対にケンカ別れしたくないし、つまらないことで意地を張りたくもないなとも思っています。腹が立ったり理解できないことがあるとけっこう難しいんですけどね。

もうひとつ、亡くなった人がなにを考えていたのかがわからないことも悲しさを増大させるポイントのひとつと考えてます。死ぬ間際、本人はいい人生だったと思えていたのか、それとも悔いながら死んでいったのか、なにも聞けなかった周りの人たちは、答えをもらうことなく生き続けなければなりません。自分が死んだときに悲しんでくれるような人のためにもDr.ヒルルクのように死にたいと思っておりますが、実際のところ、きっと思い通りにはいかないと思います。死ぬ瞬間に大事な人たちが周りにいて、なおかつ自分が話せる状態ってかなりレアですからね。

痛みや苦しみを除けば死ぬこと自体はあんまり怖くない気がしますが、言えなかった後悔を残しながら死ぬのはちょっと嫌です。であれば、定期的に気持ちを伝えておくのが良い選択だろうと思えてきます。ので、簡単に書いて締めにします。

素敵な人に囲まれて楽しい人生を送ることができています。
読んでくれてありがとうございました。

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