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短編小説「赤い川」

ビル街の灯りが、夜の闇を空に押し返していた。

ひしめく建物のあいだを縫うようにして走る首都高速道路は渋滞がひどいらしく、連なった車はすべてブレーキランプを光らせている。その様子は、都会を流れる赤い川のようだった。

高層マンションの最上階から、私は一人、そんな景色を眺めていた。夜景の手前には、ブランドもののスーツが皺(しわ)になるのを気にもせず、高級ワインの入ったグラスを片手に、革張りのソファに座る男の姿がある。一面ガラス張りの壁に映る、私自身だった。

成功者。

そういえる人間に、いま私はなっていた。名家の生まれだったわけではない。これは己の野心にすべてを捧げてきた、そしてその枷(かせ)になるもの、なりうるものをすべて捨ててきた成果にほかならない。

私の人生は理想どおりの、いやそれ以上の状況にあった。

しかし、胸の中には大きな穴が空いていた。栄光を摑(つか)んだからではない。望んだものを手に入れたからでもない。捨ててはならないもの、捨てるべきではなかったものまで、捨ててしまったからだった。

もしもあのとき、別の道を選択していたら、きっとこの穴は塞がっていたことだろう。

かつて私には恋人がいた。学生時代からの付き合いで、容姿も優れていて、とても気立てのいい女性だった。これといった不満もなく、煩(わずら)わしいもめ事もなかった。彼女は私と家庭をつくることを望んだ。

だが、捨てた。

一人でも登り切れるかわからない山を、家族という荷物を背負い込んだ状態で登れるとは、とても思えなかった。私の前に立ちはだかる斜面は、それほどに緩くはなかったのだ。

ならばもっと低い位置に理想を置き、傾斜を緩めればよかったのではないか――。いまごろになって、あの決断の正しさが疑わしくなってしまった。

私は夜景を見下ろす。渋滞が解ける気配はなく、首都高は依然として赤い川のようだ。きっとあの中にはいくつも、自分の欲するものがあるはずだ。

胸の奥底から、本心があふれ出した。

平凡と言われる存在でいい。あの赤い川に吞まれている一人になっても構わない。いま自分が手にしている財や地位や、すべてのものと引き換えにしてでも、俺は――。

「家族が欲しかった……」

その悲痛な声に反応したかのように、赤い川が滲んだ。

つぎの瞬間、獣の唸りのような低い音が鳴り出し、赤い川は小刻みに揺れはじめた。たちまち音は大きく高くなっていき、赤い川は氾濫したかのように、視界の中に広がっていく。

耐えられないほどうるさくて眩しいのに、私は耳を塞ぐでもなく、目を閉じるでもなく、光る赤に見惚れていた。轟音は巨大化し、視界が赤で埋まっていく。

そして私は、赤い濁流に吞み込まれた。

―――――――――――――

前方でブレーキランプを光らせるトラックは、壁のように動かない。

両開きの扉を持つコンテナには、ドライバーの名前が記されたプレートと、「法定速度を守って走っています。お先にどうぞ!」のステッカーが貼られている。読み飽きた。もうドライバーの名前も憶えてしまった。変わってくれない景色が、眠気を誘発させる。

首都高の渋滞の中で、私はハンドルを握っていた。

この進み具合では、さいたま市の自宅に到着するのはいったい何時になることやら。

ため息を吐いた口に、眠気醒ましのガムを放り込んだ。大きな音を立ててしまわないよう、ボトルケースの蓋は閉じなかった。

助手席では、キャップを被った息子が眠っている。息子の膝にのっているオモチャの剣は光っていない。ついさっき、私がスイッチを切ってやったからだ。

後部座席を振り返る。妻と、息子の妹にあたる娘が、すやすやと寝息を立てている。「もし寝ちゃったら起こしてね」と、おそらく妻は私の眠気を案じて言っていたが、この気持ちよさそうな寝息を聞かされては、とうていそんな気にはなれない。娘は、妻の腹にかぶさるようにして眠っている。きっと娘にとっては、隣に設置されているチャイルド・シートよりも寝心地がいいのだろう。おかっぱ頭に半分隠れた横顔はやすらかで、全身は脱力しているふうなのに、今日買ってやったぬいぐるみを小さな手から放さないのだから不思議だ。

自然と鼻から息が洩(も)れ、自分が笑っていることに気づいた。

首を回し、正面に目を戻す。前のトラックはまだ進んでいない。

「夢と魔法の国」がうたい文句のテーマパークで、一日過ごした帰りだった。日中は園内を歩くキャラクターたちと写真を撮ってもらったり、ステージで行われる華やかなショーを観たり、グッズ販売のショップで買い物をしたり、身長制限のないアトラクションを楽しんだ。陽が落ちてからは、夜空に打ち上げられる花火や、煌びやかなパレードを見物した。途中でとる食事についても、今日ばかりは子供たちの望んだものを、望んだぶんだけ買い与えた。

昼過ぎに娘が広場で転んで泣きべそをかいたことを除けば、みな一日中笑っていた。正直なところ、そこは私が直接的に楽しめるような施設ではない。しかし楽しんでいる家族の顔を見ることが、何よりの娯楽となっていた。

前を行くトラックのブレーキランプが消え、またすぐについた。私も運転するミニバンを、同じぶんだけ進める。家族で出かけるのに使いやすいようにと、自分の趣向を度外視して選んだ車だ。

妻とは学生時代からの付き合いで、互いに就職して一年ほど経ったタイミングで結婚した。大学で人気者だった彼女との結婚を、友人たちはみな羨んでいた。これまで夫婦喧嘩をしたことは一度もない。その点もまた、彼らの持った家庭とは違って恵まれているらしかった。

幸せ者。

そういえる人間に、いま私はなっていた。だがまったく自我を抑制しなかったわけではない。これは、家族を守ることを最優先に考えて行動し、その障害となるもの、なりうるものをすべて捨ててきたからこそ得られた幸福なのだ。

周りの人間に比べ、世の流れを把握し、先を読む才に長けていることは自覚していた。だがその才を使って社会と勝負するよりも、収入や休日の確実性を重んじて職を選んだ。自分が臆病だったとは思わない。家庭を持つからには、高みに上ろうとなどせず、より平坦な道を歩むべきだと考えただけのことだ。

自分の決断は正しかったのだと断言できる。しかし胸の中には石のような塊があり、拭い去れない違和感を生んでいるのも事実だった。それは、野望に向かって突き進むための固形燃料に違いなかった。

いつまでも点火されずにいるその燃料は、ときどき私に問いかけてくる。お前は本当に、俺を使わなくていいのか。己の可能性や、限界を試すことなく、一生を終えていいのかと。

しかし何も問題はない。そんなときは大切な家族の顔を見ればいい。もしそばにいないときなら思い浮かべればいい。そうすれば、しばらくおとなしくなってくれるのだ。

後部座席の妻と娘、助手席の息子を順に見た。

ほら見ろ、と内心で呟いて、私は運転に気を戻す。前のトラックは進んでいない。

短く息を吐きながら、ドア・アームレストに肘を預けた。そして頬杖をつき、何気なくサイドウインドウ越しの風景を眺める。この空中に敷かれた道路のへりには低い外壁があり、その向こうには都会というにふさわしく、背の高いビルが林立している。その中でもとりわけ高い、まるでほかのビルたちを従えているようにそびえ立つ高層マンションが目に留まった。

無意識に、私はその最上階を見上げていた。きっとあそこには、戦いに生き、己の野心を満たした成功者が住んでいることだろう。

胸の奥底から本心があふれ出した。

先など見えなくてもいい。心休まる時間も空間もいらない。自分がいま手にしている安らぎや温かさや、すべてのものと引き換えにしてでも、俺は――。

「栄光を摑みたかった……」

自分の声にはっとして、私は見つめていたビルの最上階から視線を引きちぎった。

トラックはまだ進まない。


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