信念の座り込み
同じ時間を使うのなら、人生に役立つことを学びたい。
そう思うのは自然だし、じっさい僕も学生時代、授業で教わるほとんどの科目について、無駄なのではないかと考えていた。
しかし、「無駄だった」と言い切れる瞬間はいつだろう。じつは人生が終わるときまで訪れないのかもしれない。
少なくとも、学んでいる時点で決められるものではないのだ。
―――――――――
なぜダンスなんか学ばなくちゃならないんだ?
俺がやりたいのはお笑いだ。
養成所時代、僕はダンスの授業が大嫌いだった。
もちろん、ダンスを武器として爆笑をとるタイプの芸人もいる。
しかしそれはごく少数であり、養成所でちょろっと習った程度でそうなれるなら世話はない。
ダンスは選択授業にして、受講しない人間に対しては月謝を割引くというかたちを取るべきなのだ。
養成所付近のファーストフード店で、僕はその持論をぶちまけた。
「ほんとそうよ」
目つきの悪いキン肉マンみたいな顔で、竜次は頷く。
後にロバートととなる秋山竜次くんだ。
養成所では基本的に五十音順に座らされるので、「あきやま」と「いたくら」で近くにいることが多かったのも手伝い、僕たちは割と早めに仲良くなっていた。
「ネタに関する授業を増やしてほしいよな」
ダブルチーズバーガーを咀嚼しながら僕は言う。
「それよ。あんなことやっても、マジで意味ねえやろ。笑いにいっこも役立たんし」
ごりごりの九州弁で、竜次は賛意を示した。
ダンスの授業では、課題を出されたこともあった。
数人で班をつくって、好きな曲を選び、習った動きを盛り込んだ創作ダンスを先生に披露するのだ。
地獄としか言いようがなかった。
僕と竜次は、後にポイズンガールバンドとなる阿部くんを含む数名の仲間とともに、長渕剛の『ろくなもんじゃねえ』にのせて、習った動きを皮肉るような無声コントを見せた。
それは、「俺たちがやりたいのはお笑いなんだ!」という心の叫びだった。
女性の先生は笑ってくれたが、授業内容が変わることもなかった。
ある日の授業の終わり際、僕は壁際の床に座っていた。
ガラス張りの面を背に立つ先生から、もっとも遠い位置だ。
「じゃあ最後に曲をかけるので、踊りたい人は踊りましょう」
床に座る生徒たちを見回しながら、先生は言った。
先生は毎回これを言う。そして生徒たちは全員踊る。
このに風習ついて、僕は前々から反抗心をいだいていた。
「踊りたい人は」と言われたからといって、立場上踊らないわけにはいかないのだ。それは先生もわかっているはず。ならばこちらのやる気を計るような小細工は使わず、
「じゃあ最後に曲をかけるので、全員で踊りましょう」
と潔く言うべきではないか。
いや、やってやる。
俺は今日、初めて「踊らない」を選択した生徒となって、踊りたくない人間もいるという事実を突きつけてやるのだ。
いやしかし……。
ただで済むだろうか。遅刻しただけでボウズにするような養成所だ。先生から校長に僕の悪評が伝わったら、何をされるかわかったものではない。
「どうする?」
隣に座る竜次が、小声で訊いてきた。
「いいよ、やめよう。踊りたくない奴は踊らなくていいはずだ」
迷いながらも、僕はそう応えた。
「そうやな。踊らんでいいわ」
竜次の口調からは、この悪習への、確かな憎しみが感じられた。彼も同感だったのだ。
同士ができたことにより、勇気は倍増し、不安は半減した。
僕は腹を決めた。やってやる。二人ならやれる。どんな罰が与えられようが構うものか。変革には痛みが伴うものだ。
ジャージ姿の生徒たちが、つぎつぎに立ち上がる。
僕たちは座ったままだ。
ほかの生徒たちは間隔をあけて整列し、踊る位置に着く。
僕たちは座ったままだ。
先生がラジカセに手を伸ばす。
僕たちは座ったままだ。
軽快な洋楽が流れ始めた。
僕たちは座ったままだ。
イントロが終わり、いよいよ踊り始めるポイントが来る。
僕たちは座ったまま――ではなかった。
突然竜次は立ち上がり、瞬間移動するように生徒たちの中に紛れ込むと、そのまま踊り始めたのだ。
僕は唖然として、身動きひとつ取れなかった。
こんなにもあっさりとした裏切りが、こんなにも一方的な同盟破棄が、あっていいのだろうか。
鏡に映った僕は、雑踏の中で一人、体育座りをしたまま、目と口を大きくひらいていた。
やがて怒りが込み上げてきた。
あいつ土壇場で、怖気づきやがった……!
鏡越しに、僕はかつての盟友を見た。
彼は踊りながら、僕に向かって申し訳なさそうに小さく頭を下げた。
そして目をそらし、軽快に踊り始める。
もはや打つ手はなかった。
いまさら入っていくことなどできないし、立ち去るのも不可能だ。
音楽に合わせて、みんなは踊っている。竜次も踊っている。
僕だけが座ったままだ。
僕はじっと息を殺し、ただ時が過ぎるのを待った。
何も変えられず、待ち受ける罰にひたすら怯える、無力な反逆者だった。
幸い、僕に罰が与えられることはなかった。
先生は校長に報告しないでくれたのだろう。
あのとき、先生がどんな目で僕を見ていたのかはわからない。忘れたのでない。見ることができなかったのだ。
事件から数年が経過した頃、僕と竜次は同じコント番組に出演していた。
家で放送をチェックしていると、僕の出演していない、竜次メインのコーナーが流れた。
黒人ダンサーのような恰好をして、彼は踊っている。
――それよ。あんなことやっても、マジで意味ねえやろ。笑いにいっこも役立たんし――
養成所時代、確かにそう言っていた男が踊っているのは、紛れもなくそこで習ったダンスだった。
「めちゃくちゃ役立ってんじゃねえかよ」
部屋には一人だというのに、僕は声に出して、あのときの竜次にツッコミを入れた。
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ちなみに僕にとっての「ダンスの授業が役立った瞬間」は、まだ訪れていない。
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