特別な一万円
駐車場に停めた車の中で、僕は絶望していた。
雨の中スーパーに来たというのに、財布を忘れたことに気づいたからだった。
僕は思い切りシートに背をもたせかけ、ため息をついた。
家まで取りに戻るか、今日はもう買い出しをやめにするか……。それにしても自分は、何回財布を忘れれば気が済むのだろう。
二年前の記憶が蘇った。
―――――
僕は育った町に向けて、車を走らせていた。
古い友人たちと食事をする約束をしていたのだ。酒にそれほど執着心のない僕は、帰りの便利さを考えて車で向かうことにしたのだった。
財布を忘れた!
そう気づいたのは、すでに首都高5号線を走っているときだった。
その日ジムに行った僕は、ジム用のバッグに財布を入れたまま、家を出てしまっていたのだ。
そのまま向かうことにした。取りに帰れば一時間は遅刻してしまうだろうし、高速代に関してはETCカードでの支払いになっているから問題ない。
約束の店に着くと、懐かしい面々が揃っていた。
挨拶もすっ飛ばして、僕は言った。
「ごめん、財布忘れちゃったんだ。誰か一万円貸してくれない?」
一万円あれば、きっと割り勘なら足りるだろうし、返すときのことを考えると、わかりやすい額がいいと思った。本来は恰好をつけて奢りたいところだが、そんなことは言ってられない。
「おお、いいよ」
僕をからかうわけでもなく、Tは快く貸してくれた。
長らく同じマンションに住んでいたTとは、幼稚園に入る前から友達で、馬が合うのでずっと仲がよかった。
「わりい」
僕は一万円札を受け取り、ようやく落ち着くことができた。
昔話や現在の苦労話などを語り合っていると、深夜になっていた。
一万円で足りなかったら申し訳ないな、などと会計について案じていると、トイレから戻ったTが言った。
「俺、払っといたわ」
「なんでだよ。俺も払うよ。いくらだよ」
借りている分際で、僕はTを責めるように言った。
「いや、いいって。こんなとこまで来てもらったんだからさ」
ノリで喋っているような飄々としたTの口調は、子供の頃から変わらない。
「だとしたら、これは返すよ。そんでつぎは俺が奢るよ」
僕は借りていた一万円札をTに押しつけた。
「いや、いいんだって」
Tは頑なに受け取らない。
埒が明かないので、ひとまず店を出た。
僕は車で、Tを彼の家まで送った。家の前に車を停めると、僕は助手席に座るTに一万円札を差し出した。
「やっぱおかしいって。奢ってもらった上に一万借りるとか意味わかんねえだろ。もう家まで金使うことなんてないし」
「いいって。それ、返さなくていいんだ。受け取ってほしいんだよ」
Tはやはり手を出そうとはしない。
「ますますわけわかんなくなるじゃん」
僕はもうキレそうだった。
「あのとき助けてもらっただろ。だから、少しでも返したかったんだ……」
そこまで言われて、僕は数年前の過去を思い出した。
夜中、Tから突然電話があり、「金を貸してほしい」と頼まれたのだ。
切羽詰まっているようだったので、詳しいことは訊かず、僕は引き受けた。
Tは埼玉から車を飛ばして僕に会いに来た。二人でコンビニに入り、僕はATMにカードを入れた。
ところが、時間外だったため、金を引き出すことはできなかった。
無駄足を踏ませてしまった罪悪感をおぼえながら、財布の札入れを見た。
ちょうど前日に引き出したばかりだったため、8万円が入っていた。
「悪いけど、これしか渡してやれないわ」
8万円を差し出しながら僕が言うと、Tはほっとしたように笑った。
「助かったよ。必ず返す」
「いいよ。結婚のも出産のも、祝儀渡してなかっただろ。それを代わりにしてくれ」
「ありがとう……」
Tはすぐに車に乗って、埼玉に戻っていった。
「――あのとき、俺ほんとに助かったんだ。だから、それ、受け取ってほしいんだよ」
僕が忘れていたことを、Tはずっと憶えていたのだ。この様子からすると、きっと気に病んでもいたのだろう。
「わかった。そういうことなら、受け取っておくよ」
受けた恩など忘れ、損得勘定ばかりで生きている人をたくさん見てきたせいか、僕にはTの義理堅さがとても嬉しかった。
「じゃあね」
Tは助手席のドアを開けると、車を降りた。
「バイバイ」
僕たちは子供の頃と同じように、別れの挨拶を交わした。
僕は一万円札を、アームレストの収納スペースにしまった。
これはただの一万円札ではない。Tの「義」を証明する記念品なのだ。いや、「義の心」そのものなのだ。いつかまたTを車に乗せたとき、これを見せてびっくりさせてやろう。
胸に温かいものを感じながら、僕は車を発進させた。
―――――
スーパーの駐車場で、アームレストを開けてみた。
そこにはやはりあの日のまま、Tからもらった「義の心」が入っていた。
家に戻れば財布はある。しかし外はひどい雨だ。
……この状況を知ったとしたら、Tはどう思うだろう。いまの僕に、何を望むだろう。
Tの声が聞こえた。
「まさか、そんなことで使わないよな……?」
僕はその声を頭から追い出すと、「義の心」を握りしめて、店内に入った。
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