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「イチゴ狩り」という表現はひどすぎやしないか

「イチゴ狩り」という言葉はいかがなものかと思う。

本来人間が行う「狩り」とは、獣や鳥を倒し捕えることを指していたのではなかったか。

武力において優位に立ってはいるものの、狩る側もある程度のリスクを背負い、大変な労力を必要とするものだったはずだ。

イノシシを狙って矢を外し、突撃されて怪我をしたり、一日中鉄砲を担いで山の中を歩くも、鳥を一羽も仕留められずにただ疲弊した人もきっといた。
それこそマンモス狩りなどは、多くの人が命を落としたことだろう。

それなのに、「イチゴ狩り」とは何だ。

イチゴの無防備さに対して、表現が強すぎるのではないか。

イチゴは、茎にぶら下がっているだけだ。
攻撃はおろか抵抗さえしてこない。

そんな相手に「狩り」などという言葉を使って、恥ずかしくないのだろうか。

無抵抗で摘まれるしかないイチゴからしてみれば、たまったものではない。

100パーセント従うつもりでいるのに、まるで自分を倒したかのように吹聴されてしまうのだから。

きっと最初に「イチゴ狩り」と言い始めた人間は、カッコつけたかったのだろう。

「俺、狩ってやったんだよ。イチゴ……とかいったっけな。相手は真っ赤に染まってたぜ」
といった具合に。

それに感化された人間が真似をして広がっていき、ここまで蔓延したのだろう。

「イチゴ摘み」という的確な言葉もあるらしいのに、「イチゴ狩り」が主流になっているのはきっとそのためだ。

難易度の低さからして、「イチゴ集め」でもいいくらいだ。

これは「ブドウ狩り」や「ナシ狩り」、「松茸狩り」など、じっと動かず無抵抗なものすべてに当てはまる。

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もっと解せないのが「もみじ狩り」である。

いったい何を狩った気なのだろうか。観たら帰るくせに。

こんな表現をされたら、間違いなくもみじ側は、チェーンソーで斬り倒されてしまう! と考えるはずだ。

覚悟を決めて全身に力を入れるも、人々は指一本触れずに帰っていく。
肝の冷やされ損と言うほかない。

鑑賞することまで「狩り」になってしまうのだとしたら、我々は毎日「テレビ狩り」や「スマホ狩り」をし、学校に通う生徒などは「黒板狩り」をしていることになってしまう。朝礼では「校長狩り」をしていることになり、すべての学校が「不良の巣窟」というレッテルを貼られてしまうだろう。

これもやはり、カッコつけようとした人間が言い出したのだと考えられる。

「俺、狩ってやったんだよ。もみじ……とかいったっけな。相手は真っ赤に染まってたぜ」
という具合に。

これは素直に、「もみじ鑑賞」と呼ぶべきなのだ。「花見」のルールに準じて、「葉見」と呼ぶのもいいだろう。

「潮干狩り」に関しては、手の施しようがないので諦めることにする。


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