メンヘラは他人のエネルギーを浪費している

 実は、言葉は無からは生まれない。言葉には思いが込められている。思いを体外に表出するためには、膨大なエネルギーが必要だ。
 なぜなら、人間は無意識のうちに言葉の取捨選択をしているからである。対話相手にあわせ、自分の感情や伝えたい思いを成形し、言葉として出荷する。言葉に至るまでの経路を工場と形容すれば、その大変さが伝わるだろうか。
 ところでメンヘラは、健常な人間から敬遠されがちだ。非常識だと見下げられ、馬鹿にされたりもする。健常な人間は、たまたま運が良かっただけのくせに。私自身も、メンヘラに対する、明確な区別や差別意識に憤った経験がある。私は不幸だったから、仕方ないじゃないか。本気で自分を悲劇のヒロインだと信じていた。そして、気付かぬうちに優しさや真心を搾取する側に回っていた。
 被虐待やいじめの経験等、トラウマがあると、人間は視野が狭くなる。自分を酷く扱ってきた人間と、その他の人間の区別がつかなくなるのだ。そのため、どんな声掛けも心配も、私にとっては無意味であった。結局人間は、私を殴るし暴言を吐く。今は優しく接してくるが、近い未来必ず私を殴る。そんな人間の吐く言葉なんて、信じられない。自衛のために、信じたくない。傲慢な妄想に、ずっととらわれていた。
 しかし、私はいつまでも可哀想な子どもではいられない。事実、成人を迎え数年が経過した。子ども時代は確かに重要だが、どう生きるかは自己責任である。ある日、被虐待経験が何よりも憎たらしいのに、ある種、被虐待経験を最も大切にしている自分に気づき、愕然とした。
 私には、有難いことに私を大切にしてくれる人間が何人かいる。大切な人間が伝えてくれた気持ちより、自分の被害妄想を優先させているのは、他ならぬ私だったのだ。
 自分の真心を砕いて他者に言葉として分け与える行為には、疲労が伴う。疲れてでも、私のためにエネルギーを使ってでも、「大切だよ」「素敵だよ」「好きだよ」と伝えてくれる人たちを、気付かぬうちに、私は無下に扱っていたのだ。
 相手からしたら、せっかくエネルギーを消費したにも関わらず、拒絶され、あろうことか「私のことなんて好きじゃないくせに」と気持ちを疑われる。正直、たまったもんじゃない。ペイしたにも関わらず、望んだ結果が得られない。お金を払ったにも関わらず、品物が手に入らない。歪な店に、2度目の客は来ない。メンヘラが忌避される理由は、他人が言葉に込めたエネルギーを粗雑に扱うから、ではないだろうか。
 しかし、メンヘラにだってメンヘラをやめられない理由や背景がある。メンヘラ本人は、人間社会でどう生きたらいいのだろう。
 残念だが、社会は病んでいる人間に優しくない。資本主義社会は妥協によるシステムだ。決して最良の社会構造ではないからこそ、どうしてもあぶれる人間が発生する。私は、何回も社会からはみ出ては、底に叩きつけられ、痛い思いをしてきた。同時に痛いよ、と泣けば、友達や恋人や、医療従事者たちが、手を差し伸べてくれた。
 天涯孤独だと、盲目になってはいないか。あなたを想ってくれる人間を、スルーしてはいないか。自身の悲劇性に酔って、視界が霞みがかってはいないか。
 私が恵まれている人間だと、言われたら仕方ない。それでも、人間は社会的な動物だ。1人では生きていけないからこそ、大なり小なり、あなたをみて、あなたのために言葉を発してくれている人間がいるはずだ。どうか、あなたを思い、懸命に気持ちを伝えてくれている人間を、大切にして欲しい。
 どんなに大切に想っても、伝わらない状態は、酷く悲しいし寂しい。やるせない。少なくとも私は、自分が辛いからこそ、他人に辛さを振りまきたくはない。
 被虐待経験ばかり優先するのではなく、意識的に私を大切にしてくれる人たちを、大切にしたい。言葉通り、すんなり上手くはいかないだろうけど。他人の気持ちを、大切にしたい。できる範囲で精一杯。私の人生は、私のものだ。何を大切にするかは、私が決めていいのだ。

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