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溺愛キッチン

まな板の上には、でんと大きなタコの足が二つ。
「さて……どうしようかな……」
 筧深春は包丁を手にしたまま、うーんと考え込んでいる。
「いくら安くても……これは買うべきじゃなかったかな……」
 今日は一日オフだ。昨日は遅番で、明日は日勤から入る。というわけで、今日は少し凝った料理を作ろうと、勇んでスーパーに出かけていったのだ。そこで見かけたのが、この大きなタコの足だったのである。見たこともないくらい立派なタコさんが、あまりに安かったので、ついつい買ってしまったのだが。
「タコって……案外、使い勝手よくないんだよね……」
 ぱっと思いつくのは、酢の物とか刺身だが、この大きさを酢の物にしたら……二人ではとても食べきれない量ができそうだ。
「タコ……タコ……」
 タコの足とにらめっこしながら、しばらく考えていたが、やがて筧はギブアップした。もともと、それほど料理のレパートリーは広い方ではない。普通に食卓にのっける系のお惣菜なら、レシピも見ずにてきぱき作れるのだが、賀来や藤枝が作るようなおしゃれな料理は、レパートリーの中にはほとんどない。もっとも、筧の料理を食べてくれる恋人が、あたたかい家庭の味を喜ぶので、特に問題はないのだが。
「でも、タコ……」
 その筧のボキャブラリーの中に、この大きなタコをすべて消費できるレシピは、いくら考えても存在しなかった。
「仕方ない」
 筧は包丁を置くと、音楽を流していたスマホを手に取った。
「奥の手だ」


『タコなら、このレシピをおすすめします』
 筧が発したSOSに答えてくれたのは、イタリアンレストラン『プリマヴェーラ』の美人シェフだった。
『時間はかかりますが、難しいものではありません。ワインにもビールにも、ハイボールにも合いますし、パスタにかけても美味しいです』
「えーと……オリーブオイルにみじん切りのにんにくと唐辛子と……イタリアンパセリはないから、普通のパセリでいいよね……」
 弱火でゆっくり炒めていくと、いい香りが立ってくる。焦がさないように気をつけながら、オイルに香りが十分に出たところで、みじん切りにしたパセリの半量とパセリの茎、白ワイン、タコを入れる。
「よかった、ワイン残ってて」
 普段はワインなどこの家にはないのだが、たまたま賀来が「新しいメーカーから仕入れてみたんだけど、試飲してみてくれない?」と、みんなに一本ずつ届けてくれたのだ。それを二人で飲んだのだが、筧はほとんどアルコールをたしなまないので、余ってしまったのである。火を少し強めてアルコールを飛ばし、そこにレシピを見てから、近くのスーパーで買ってきたトマト缶を二缶たっぷりと入れる。
「水、全然入れないんだ……」
 あとは蓋をして、じっくりと煮込むだけだ。簡単すぎて何だかなーだが、とりあえず、タコは消費できそうだし、何よりすごく食欲を刺激するいい香りがする。
「先生、喜んでくれるかな……」
 ごはんのおかずだと、煮物や焼き魚といった、筧の得意料理を好む、恋人の神城尊だが、フレンチやイタリアンも嫌いではないらしく、賀来や藤枝の料理も美味しそうに食べるし、このタコのレシピをくれた真崎理恵のイタリアンメニューもかなり好きなようだ。
「晩ごはんはパスタかな……」
 サラダは何にしようかと考えながら、冷蔵庫を覗く。
「あ、レタス使っちゃわないとな。フルーツトマトもそろそろ食べないと……でも、トマト被るなぁ……。先生、トマトは好きみたいだからいいかなぁ……」
 こんな風に神城のことを考えながら、台所で過ごす時間が、筧は好きだ。もともと料理をするのは嫌いではなかったが、この台所で、神城のために料理をするようになって、一層好きになったし、レパートリーも増えた気がする。
“俺って、尽くすタイプなのかな……”
 ナースとして、医師のサポートをすることには慣れていた。しかし、何もかもをしてあげたい……自分にできることはすべてしてあげたいと思ったのは、神城が初めてで、彼以外にそんな風に思ったことはない。
 神城と恋愛関係になる前には、何人か女性とつき合ったこともある。筧なりに好きになった相手であったし、プレゼントをしたり、食事をおごったりもしたが、これほど「あれもしてあげたい。これもしてあげたい」と思ったことはなかったような気がする。
“やっぱり……先生は特別なのかな……”
 冷蔵庫の前に座り込んで、しばし考える。
“もしかしたら……俺は先生に出会うまで、本当の恋愛をしてこなかったのかな……”
 確かに、神城に出会い、その背中を追い、隣に並び、そして、愛されるようになって……筧は自分が変わったと思う。感情の揺れが激しくなり、よく笑うようになったし、よく泣くようにもなった。それがいいことなのか、よくないことなのか、筧自身にはわからないが、少なくとも、生きていくこと、暮らしていくことは楽しくなった。
 ある意味、神城は筧の生きがいで、筧の一部だ。
「もう、俺は……先生なしじゃいられないんだなぁ……」
 ぼんやりとつぶやいた時、廊下をたたっと犬たちが走って行く音がした。
「あ、まずい……っ」
 三匹の愛犬たちが玄関に走って行くとしたら、それは神城の帰宅だ。
「急がなきゃ……っ」
 台所いっぱいにいい匂いがしている。
 今日も……あなたのために、俺は美味しいごはんを作る。
「お帰りなさい!」
 サラダのためのレタスとトマト、きゅうりを冷蔵庫から取り出して、筧は声を張り上げる。
「もうじき、ごはんですよ!」


「……迫力だな」
 インパクト抜群の風景に、神城は目をぱちぱちと瞬いている。
 スープ皿にたっぷりのトマトソース、その中にでんと鎮座しているのは、まるのままのタコの足だ。
「切った方が食べやすいんですけど」
 筧は笑いをこらえている。
「でも、これを先生に見せたくて。すごいでしょう?」
「ああ……びっくりした」
 神城は素直に言うと、この食卓にはめずらしいシルバーを取ると、器用な手つきでタコの足を切り分けた。トマトソースをたっぷりとつけて、口に運ぶ。
「……うん、美味い」
 一時間ほど煮込んだタコは、ほろほろに柔らかくなっていた。水分をまったく入れていないので、トマトの味がぎゅっと濃縮されて、淡泊なタコによく絡む。
「ぷりぷりで固いのかと思ったら、柔らかいな。これは美味い。このソース、スパゲティにかけたら、もっと美味いんじゃないのか? タコのエキスもよく出てるし」
「はい、パスタ用意してあります。もう少しタコを食べてから、出しますね」
 筧もタコを食べてみる。
 うん、これは大成功だ。酢の物だと歯ごたえがあるので、なかなか量は食べられないが、これだけ柔らかいと、大きな足の一本もあっさり食べられてしまう。
「ピリ辛だから、ビールにも合うな」
 神城はご機嫌である。
「おまえ、本当に何でも作れるんだな。これ、イタリアンだろ? てことは、真崎シェフのレシピだな」
 ばれてる。筧は笑いながら頷いた。
「はい。つい、このタコを買ってしまったので、何かいいレシピがないか、伺いました」
「タコって、酢の物くらいしか思いつかないもんな」
 こってりとしたトマト味の料理には、さっぱりとしたサラダがほしくなる。あっさりとしたグリーンサラダには、爽やかなレモンドレッシングを合わせた。レタスを口に運びながら、神城が言う。
「で? これ、何という料理なんだ? タコのトマト煮?」
「いえ」
 筧はいたずらっぽく、神城を見た。
「おもしろい名前です。名前だけで作りたくなりました」
「え?」
 タコがトマトソースに浸っている。トマトソースの中で泳いでいる。トマトソースで……溺れている。
「ポルポアフォガート……日本語にすると」
 『タコの溺れ煮』。


 俺はあなたの愛に溺れている。
 あなたの与えてくれるたっぷりの愛に溺れている。
 今夜も……あなたと溺れよう。
 溢れる……愛に。