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あらしの前

 年末の銀座は、華やかなざわめきの中にあった。
「クリスマスが終わったから、もう静かかなと思ったんですけど」
 筧深春は、少しびっくりしたような表情で、辺りを見回している。
「結構、人が出ていますね」
「忘年会とかじゃないのか?」
 のんびりとした口調で言うのは、当然のことながら、筧のパートナーである神城尊だ。筧はややオーバーサイズのダウンコートをぬくぬくと着ているが、神城は黒のレザーで仕立てたショートコートの前を開けている。その下は確かクルーネックのセーター一枚だったはずで、相変わらず寒さには強い人である。
「忘年会はもっと早いです。病院のだって、十二月に入ってすぐだったでしょう?」
「そうか? 縁がないから、わからんな」
 センターは二十四時間年中無休なので、基本的に飲み会などはない。絶対に全員参加はできないからだ。センター長である篠川の方針で「全員出られないなら、やらない方がいいよ。不公平だからね」ということで、新入職員の歓迎会もない。あっさりしたものである。とは言っても、何もないのも寂しいということで、仲間内では、節目ごとにそれぞれ何かやっているようだ。筧たちも、行きつけのバーである『le cocon』で、つい先日クリスマスパーティを楽しんだ。いろいろと持ち寄りのパーティで、筧も自慢の祭り寿司を作っていって、大いに面目を施したものである。
「じゃあ、忘年会でもないのに、何でこんなに街が混んでるんだ?」
「さぁ。年末の買い物とかじゃないんですか?」
 二人はのんびりと歩いていた。
 普段の生活では、職場と自宅、近所のスーパーくらいしか出歩かない二人だ。キラキラと華やかなショウウィンドウや、イルミネーションを眺めるだけで、何だか気分が盛り上がってくる。
「……お寿司、美味しかったです」
 筧は笑って言った。
「人に作ってもらうごはんって美味しいです」
「そういう観点で美味いのか?」
 神城が苦笑している。
 クリスマスパーティの時に、筧は半分冗談で神城に回らない寿司をねだったのだが、それを彼はちゃんと覚えていて、昨夜突然「明日、予約取れたから寿司食いにいこう」と言いだして、筧を驚かせたのだ。そして約束通り、白木のカウンターに座り、すべて『時価』という恐ろしい高級店で、お腹いっぱいお寿司を食べての帰りである。
「もちろん、それだけじゃないです」
 筧は真面目に答える。
「江戸前寿司っておもしろいですね。いろいろ仕事してあって。お吸い物の出汁のひき方も教えてもらったんで、明日にでも試してみます」
 神城が連れて行ってくれた寿司屋は、彼が祖父とよく食べに行ったなじみの店なのだという。隠れ家っぽい小路を入って、趣のある引き戸をからりと開けると、神城を見た大将が相好を崩した。『神城の坊ちゃん、お久しぶりです』と。
「しかし、先生を坊ちゃんと呼ぶ方がいらっしゃるとは」
「笑うな」
 神城が少し苦い顔をする。
「子供の頃から行っていた店なんだ。とにかく、美味いことは間違いないから、おまえにも食べさせたかった」
 敷居が高いはずの銀座の一流寿司店ではあったが、大将も板前さんたちもびっくりするくらい愛想がよく、料理好きの常でいろいろと聞きたがる筧の質問には丁寧に答えてくれ、出汁のひき方まで教えてくれた。
「すごく……美味しかったです」
 ひとつひとつの寿司が、まるで芸術品だった。美味しい……目にも美味しい美しさで、口に入れるとほろりと寿司飯がほどけ、仕事を施したネタと一つになって、何とも言えない余韻を残して消えていく……そんな感じだった。
「俺はくるくる回るやつも嫌いじゃないけどさ」
 神城が軽くため息をつく。
「でも、たまにこういうのも食べたくなる。何てのかな……俺にとって、あの寿司はまぁ……ノスタルジックな存在だからさ」
「お祖父さんと……食べたから?」
「まぁな」
 神城は祖父の覚えがめでたいと聞いている。夏に自身が経営していた会社の工場が事故を起こしたことをきっかけに、神城は相続放棄の手続きを始めて、莫大な財産の整理をしている。相続を放棄するということは、彼が絶対に神城興産の後を継がないということだ。
 祖父は、自身によく似ている神城を可愛がり、後継者にと考えたこともあったらしい。しかし、彼は敷かれたレールの上を走ることを拒否して、今にいたる。
「何だかんだ言って、祖父さんは俺を可愛がってくれたからな。まぁ、可愛がられたせいで、親にも妹たちにも憎まれることになってしまったから、いいんだか悪いんだかわからんが、俺は祖父さんのことは嫌いじゃない。確かに独善的なところはあるし、頑固じじいだが、いいものを見分ける目は持っていた。だから、俺にいいものをたくさん教えてくれたし、見せてもくれた。それは感謝してる」
 神城という男は不思議なところを持っている。
 白衣やスクラブは「何でもいい」と言って、1枚2000円くらいのものを着ていたかと思えば、私服のスーツはほとんどロンドンのサヴィルロウで仕立てたものだったりする。ワイシャツは当然のことながら、すべてオーダーものだ。それでいてTシャツは1枚1000円でも構わない。
 いいものなら、金に糸目はつけない。しかし、その「いいもの」はきっちりと選ぶ。中途半端なものはいらない。
“俺も……中途半端にならないようにしなきゃ……”
 彼にふさわしいパートナーでありたいと、筧は願う。
 誰にでも「こいつは俺のパートナーだ」と、悪びれることなく紹介してくれる彼のためにも、彼がいつも自信を持って紹介できる自分でありたいと思う。
“がんばらなきゃ……な”
「どうした?」
 急におとなしくなった筧の顔を覗き込んで、神城は首を傾げた。
「寒いか? 早く帰ろうな」
「いえ、大丈夫です」
 もう少しだけ、ゆっくりと歩きたい。
 キラキラと輝く華やかな街。ふかふかのコートに包まれて歩く人たちは、何だかみんな幸せそうだ。少しだけ飲ませてもらったお酒の酔いが気持ちいい。このまま……ふわふわとした気分のまま、もう少しだけ歩きたい。
「手、貸せ」
「え……?」
 きょとんとしている筧の右手を、神城がそっと握った。
「せ、先生……っ」
 あたたかく大きな手が、筧の小さな手を包み込む。神城の手はさらりと乾いていて、意外なくらい、その手のひらは滑らかだ。人の肌に触れる医師という仕事柄、手を荒らすことはできない。第一、手に傷などあったら、感染の危険も増すし、何より手指消毒で飛び上がること請け合いである。
「やっぱりおまえの手、冷たいな」
 優しく手を繋いで、神城が笑った。
「さっき、寿司屋を出る時にちょっと手に触っただろ? 冷たくてびっくりした」
「いや、俺、末端冷え性なんで……」
 思わず引っ込めようとした手を、神城はふんわりと握り込んで離してくれない。
「手袋、買ってやろうか。そういやこの前、宮津先生が可愛いの、はめてたな」
「毛糸編みのミトンでしょう? あれ、もらったらしいです」
「へぇ……藤枝が嫉妬しそうだな」
「……相手は中学生の女の子たちです」
 筧は冷静に言う。
「夏休みに中学生の職場体験があったでしょう? あれに来てた子たちだそうです。二人で片方ずつ編んだって聞きました。職場体験の時、宮津先生が優しくて、可愛かったからだそうです」
「中学生に可愛いって言われてんのか」
 神城が笑う。
「恋人が可愛いと、藤枝も心配の種が尽きないな」
「先生はその心配がなくて、何よりです」
 繋いだ手がふいにキュッと握られた。思わず、顔を上げる。
 彼の眼鏡の奥の瞳が、びっくりするくらい優しく筧を見つめている。
「そんなことないぞ」
 神城は柔らかく微笑んでいた。
「おまえは可愛い。可愛くて可愛くて、食べちまいたいくらいだ」
「……」
 手を繋いだまま、二人は冬のきんと澄んだ空気の中を歩いて行く。結んだ手があたたかい。そして、なぜか……耳元は熱い。
「……食べられてもいいです」
 筧は小さな声で答える。
「俺……先生になら、食べられちゃってもいいです」
 どうして、こんなにもこの人が好きなんだろう。初めて会った日から、もう両手の指で数えるくらいの年月が経つのに、ずっとずっと好きで、もっともっと好きになる。
「……うちに帰ったら、たっぷり食べてやるよ」
 くすりと、妙に色めいた笑いを、神城が洩らした時だった。
「……あれ?」
 ふと、彼が足を止めた。筧も一緒に立ち止まる。
「……どうしました?」
 神城は目を細めるようにして、道路を挟んだ向かい側、少し離れたところを見ていた。
「あれ……森住先生じゃねぇのか?」
「え?」
 筧の方が目はいい。10メートルほど離れた向かい側の歩道で、男女のグループが賑やかにふざけあっていた。その中で、一際目を引く長身のハンサムは、間違いなく二人の同僚である医師の森住英輔だった。
「……先生」
 筧の声が低くなった。
「あれ……まずくないですか……?」
「……まずいな。場合によっては」
 二人の目は、なかなかに『まずい』シチュエーションを目撃していた。そして。
「せ……先生……っ」
 筧は思わず、神城の手を握りしめていた。
「いてぇって……っ」
「ま、まずいです……っ」
「え?」
 筧の視線の先を追って、そして、神城は絶句する。
「……深春」
恐ろしくキラキラとしたオーラが二人の視線の先を通り過ぎていく。そして、近づいていく。『まずい』シチュエーションに向かって。
「……逃げるぞ」
「……賛成です」
 二人は、数秒後に繰り広げられるに違いない修羅場に巻き込まれないよう、くるりと背を向けると足早に歩き出した。
「帰るぞ」
「帰りましょう」
 帰ろう。
 二人のあたたかい場所に。そっとこのまま手を繋いで。
 都会の冬の夜。
 あらしが来る前に。