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元京都人の偏屈爺による昭和中後期想起の東山彷徨

一年半ぶりの京都

 京都で生まれ育ったが中学を卒業して関東に引っ越したので「元京都人」になる。京都は一度引っ越せばもう部外者である。いけずとかではなくて、そういうことなのである。引っ越してからも何かと京都を再訪する機会があったが、最近歳を取ってから訪ねると、昔のことがやたらとチラチラと思い出されたり(シナプスの通りがよくなったのか、或いは誤作動するのか)、たまたま面白いものを見つけたら初めて見るものだったりする。さらには、そういうものが時々、京都を離れて以降の様々な事物と関係を持っていることに気づいたりすると、曇った頭が少し晴れる気がする。
 このところ三年続けて京都に来ている。たまたま仕事が京都であるからだが、自腹で来れるほどの年金をもらっていないので、時々「たまたま」を呼び込んだりもする。但し、出張であってもいつもかなりの赤字になる。比較的いい宿に泊まって、比較的いいものを飲み食いするからだ。投宿先は今までに何回も使っている市内中心部の老舗ホテルである。仕事の関係で招聘した外人さんが京都に用事がある時はいつもここに泊まらせたが評判がよかった。昔は手頃な価格だったが、今のインバウンド騒動でかなり高くなった。いずれにしても寝るだけだが、ロケーションは重要である。
 今回の京都行きの最大の目標は「ますたに」でラーメンを食うことだ。この歳になると、仕事が何らかのモティベーションになり得ることは最早あまりない。ますたには昭和22年開業らしい。そこで食べた最も古い記憶は、小上がりの座敷に座って、実家の酒屋で働いていたおばさんにラーメンをプラスチックのお椀に少しずつ移してもらいながら啜っていたセピア色のシーンである。小学校に入る前だから、かれこれもう六十年以上の間欠的常連である。三十年ほど前に行った時に先々代のおかみさんの調理師免許がかかっていたのを見たことがあるが、母親と同い年だった。ますたにの開店時間は十時と記憶していたが、ネットでは十時半という情報もあり、神経症なので前日に伊丹空港から電話をしたが十六時の閉店近くで誰も出なかった。一昨年に行った時も十時だったという朧げな記憶があるのでそれに賭けることにした。
 ますたに訪問の前日は自宅での朝食の後、例の十八時間断食をやろうと意気込んでいたが、羽田から伊丹経由で四条烏丸に着いて,水だけ買おうとコンビニに入ったら、八海山小瓶300mlとレモン酎ハイ7%のロング缶、タコわさ、タコ飯握り、揚げ豆、イカフライ、カップうどん大という豪勢な宴会セットを買ってしまい、夏場所十二日目を見ながら至福の時を過ごし、七時前には寝てしまった。夜中の二時頃に起きたので久しぶりに十分な睡眠時間を取ったが、そこからますたにの開店時刻まではかなり間延びした時間となった。

四条烏丸から河原町今出川まで

 今出川通りまでは地下鉄に乗った。地下鉄を降りて目的の出口に最少時間で辿り着く確率は概ね低い。というか、目的の通りに出られる出口を探すのに地下でうろうろするよりも、適当に地上に出て信号を渡った方が若干早いからである。案の定、適当に地上に出ると、目的地の対角である今出川烏丸の交差点の南西に出た。地上に上がった瞬間に感じたのは、通りの幅はこんなに広かったっけという驚きである。古い記憶にある通りは市電が二本の軌道を走っていたので狭いはずがない。多分、市電に乗っていると、外に見える道が大して広くないと感じたのだろう。
 今出川の北側を東に進む。大学のキャンパスがずっと続き、女子大の方も相変わらずある。ひとつにしてしまえば効率がいいはずだが「みんな色んな事情があるんや」ということか。これは、もう少し東に進むと見えてくる大学に異動した、そこ出身の元同僚が何につけ吐いていた言辞である。彼は受験の年に某大学の入試が中止になってやむを得ずそこに入った言語学者である。彼が出身大学に異動した経緯は京都らしい音調で語ると非常に興味深い趣を醸し出す。そこの言語学講座のひとりの教授が定年退職するので、他のご老体方からその元同僚に「誰かええ人おらんやろかなぁ」と照会があったらしい。あちこち探したが見つからず、その旨を報告すると「別にあんたでもええんやでぇ」と少し断定的なニュアンスで言われた由。家を新築したばかりの彼は送別会で「京都の爺さん連中はほんまに怖いわ」と語った。
 話を女子大に戻すと、以前、関東地方の田舎の計算機センターにいた時の後輩大学院生がそこにポストを得て長年勤務していたらしい。彼とは麻雀以外付き合いがなかったが珍しい名前なので覚えている。ポストの全体数が減っているので、統合とか選択とか集中とかいう効率重視の呪文が飛び交う昨今の流れに逆らう(棹さすの逆である)貴重な大学だと言えるだろう。この大学(女子大も含む)は今出川の、河原町と交わる辺りまで続いている。道の向かい側は烏丸からは御所である。御所は昨年の正月過ぎに外人さんを連れてちょっとだけ見たので(記憶ではその時に生まれて初めて入った)、今回はパスする。例の元同僚は御所でちょっと羽目を外してパト騒ぎになったことがあるらしい。
 河原町の交差点に着くと、さすがに道が広いと感じる。少し南に下った川寄りの幼稚園に通っていた。その頃は市電で五円の運賃を払って通ったことを覚えている。そこの幼稚園では、みんなが可愛がっていたヤモリかなんかを踏み潰して長い間非難されたこと、走り回っているうちに出会い頭に男の子とぶつかってひっくり返って盛大に鼻血を出したこと、ハジメくんの鼻クソがいつもデカかったこと、卒園アルバムに指揮者になりたいと書いたこと、いじめの達人に下腹を殴られたこと、なんかを覚えている。

河原町今出川から百万遍まで

 程なく鴨川にかかる橋を渡ると出町柳である。橋の途中できれいになった鴨川/賀茂川の分岐点を見る。昔はあの分岐するところに犬や猫の死骸がよく引っかかっていた。

出町柳の北側の川べりには小学校に行く時に乗るバス停があった。冬は吹きさらしの風が冷たくて子供心に京都の寒さを呪ったものだ。バスでは少し年下の、今は女優をやってる子と(歌舞伎役者の祖父が河豚にあたって亡くなった)その弟とよく乗り合わせたが、何故か折り合いが悪くて傘でよく突かれた。
 東に進み続けると百万遍だ。その辺りの食い物屋のことを近くの大学を出た元同僚たちがよく懐かしそうに話すが全部行ったことはない。百万遍で思い出すのは、昭和四十五年頃、家に帰るのに22番の市電に乗っていたら、ちょうど学生さんたちが敷石を剥がして投げていたのを機動隊が催涙ガスで牽制しているところに差し掛かったようで市電はそこで立ち往生し、乗客は降ろされた。家まで歩いても大した距離ではなかったが、催涙ガスの残滓が結構目に染みた。
 そろそろ大文字が見えて来るが、電線が邪魔でいい景色ではない。右手にあるキャンパスには何度か入ったことがあるものの、殆ど記憶がない。関係があったのは計算機センターだけだったし。その頃のセンター長は不思議な老師といった感じの星野聰翁だった。今出川の北側を進むと農学部が続き、少し進むと初めて見る控え目な天皇陵がひとつあった。後二條天皇の北白河陵である。京都は天皇陵が思いがけないところにある。点在する陵の位置関係を多変量解析したら必ず「何か」と関係しているに違いない。

さらに少し進むと見覚えのある光景に出逢った。今出川と直交しているやや広めの道はキャンパスに通じているが、その東側に並行して民家が連なっている。その細道をしばらく北上して右に曲がると父方祖父の借家が昔あった。小学校の帰りによく寄ったが祖父母は大歓迎してくれた。時々は弟と泊まりにいった。その家での記憶が断片的に残っている。白黒のテレビでエイトマン、ビッグX、マグマ大使、鉄人28号などを観た。だから年齢は一桁だった。行くたびに祖母が粉末のオレンジジュースを製氷器に入れて作ったシャーベットや、料理下手の祖母が一生懸命作った水っぽいハンバーグをご馳走になった。今思えば、母が祖父母宅に泊まるのを嫌がったのはこの辺りが理由だろう。祖父が寝ながら両腕に自分と弟を抱き寄せて、「孫二人とこうして寝られてオレは本当に幸せやなぁ」と特徴のある渋声で呟いたのは一回ではなかったと思う。祖父は満州で軍需工場を経営していて、中華民国から懸賞がかけられていたらしい。敗戦後に無一文で帰国したようで、祖母はよく大量の軍票を見せてくれたが何の役にも立たなかったらしい。同じものをマラッカ海峡近くの土産物屋で見たことがあるが、妙にきれいな状態だった。わざわざ偽物を作る手間をかけることはないと思うのでホンモノなんだだろう(シェフ・シャウエンの化石と同じだ)。父は三男だったが何故か祖父母の面倒を見ていた。東京の最も古い記憶は祖父母が借りていた狭い部屋から見たケバケバしい夜の東京タワーだ。その頃の東京では、松葉杖をついてアコーディオンやハモニカを演奏する傷痍軍人がまだ通りに結構いた。当時羽振りの良かった父がどこかの地下道で千円札を置いた時の彼らの仰天した顔を覚えている。祖父母はその後、祖母の故郷である堺の浜寺に移り、彼女はそこで夫を看取った。老衰だった。もうあと数日で亡くなるという報せを受けて我が家全員で訪ねると、祖母は夫の横で死装束を縫っていた。その家で記憶しているのは祖母が鍋で作ってくれた焼肉の美味しさである。祖母はその後、京都の我が家にいたり、東京に引っ越した後の我が家にいたりしていたが、一時期は叔母の茨城の家に居候し、最後は父が引っ越した熱海の家で亡くなった。チャーミングで好奇心旺盛で食いしん坊の祖母だった。堺出身の祖母の旧姓は当地を有名にした某職種の名前である。これは自分では数少ない自慢のひとつだ。頭より手先が器用なことは何よりも大事である。

ますたに

 今出川を農学部から銀閣寺道の交差点の手前まで進み、今出川の北側を並走している疏水の脇に上がるボロ階段を登る。草が生い繁る道を進むと、草のムッとする匂いが鼻を襲う。関東では嗅いだことがない種類のものだと感じたが、そんなことはないだろう。嗅覚と記憶との例の微妙な関係によるのだろう。

疏水の北側に渡る小さな橋のたもとに相変わらず控え目な佇まいの店がある。時刻を確認すると九時五十九分だった。ドア越しに《開いているか》と店員に手真似で聞くと大丈夫らしいので入り、入り口のレジに一番近い席に座るよう指示される。これは客の回転を考えると効率的な配置である。奥の小上がりには既にひとり先客がいた。ここは許可が出ないと注文できない。程なく「はい、お兄さん何にします」と聞かれ、チャーシュー麺並の麺堅め、ネギ多め、ライスを注文。ここの丼は小ぶりなので並でも目一杯の分量となる。チャーシューは京都に住んでいた頃、隣の母方祖父母の母屋でたまに食べた焼き豚と味が似ている。薄く切った焼き豚をさらにフライパンで焼いたような感じで、最近の分厚い凝った味付けのチャーシューとは味も食感も違うがいずれにしても懐かしい味だ。ゆっくりと味わって食べ進み、途中で立っている店員のお兄さんに水のお代わりを頼み、酢と一味と胡椒による味変を少しずつ試す。これが最後の一杯になるかも知れないし。二年前に食べた時に感じた軽い失望(獣臭がなくなったこと)と比べれば幸福な再会の部類だろう。朝飯を抜いて腹が減っていたし、烏丸今出川からゆっくり歩いて来たことも影響したに違いない。

銀閣寺道交差点

 幼稚園から市電に乗って帰る時に降りた停留所はますたにのちょうど前にあった。母親は時間がある時には迎えに来ていた。その電停のすぐ近くの白川通りにある産院で弟二人と妹は生まれ、産院の向かいには耳鼻科があった。小さい頃から鼻づまり気味でそこにはよく通った。上に吊るした容器から温かい洗浄液で鼻うがいをするのが気持ちよかった。鼻孔に突っ込む何とも言えない感触の噴出孔が他の患者と共用だったのは今思うと気持ちが悪いが、昭和の中頃は何とも思わなかった。扁桃摘出手術をそこで受けたことがある。一般の患者を入れない休診日の朝早くに父が一緒に来てくれて、ドロドロした麻酔を飲み込まないように喉の奥に溜めて(胃カメラ前のアレと同じだ)、十分に効いたら湾曲した奇妙な形状の鋏で片方ずつチョキンチョキンと切っておしまいである。麻酔が切れた後もそれほど痛くはなかった。ちょっと休んですぐ帰宅した。最近では入院して全身麻酔でやる種のオペらしい。耳鼻科の医師は温厚な感じで息子さんがあとを継いだようである。近くの市場の横に軍医上がりだと噂されていた歯医者がいたが、市場で駄菓子を買って帰る途中に、泣き叫ぶ子供とそれを叱りつける声がよく聞こえた。こちらも如何にも昭和らしいが流行ってはいなかったと思う。京都にいた時期に歯医者に殆ど行かなかった理由のひとつはそれかも知れない。

耳鼻科から疏水を挟んだ南側の空き地に色々な屋台がよくあった。昼間は漫画を売るスタンドとたこ焼き、夜はラーメンのやや大きなテントである。少年サンデー派だったが小学校卒業時に読むのをやめた。耳鼻科の待合室では置いてあった少年キングや少年マガジンなど他の雑誌も読んだが、何故か少年サンデーが一番しっくりきた。漫画を読まなくなったのは、漫画より面白いものがたくさんあることを知ったからだ。たこ焼きは三個十円で、よく弟や妹に奢ってやったが、帰る前に口を開けさせて、ソースや青海苔がついてないかを点検した。親は買い食いが気に入らなかったからだ。夜のラーメン屋台は2階で家族が寝静まってからそっと家を抜け出して食べに行った。一階の物置のような部屋をあてがわれていたので自立心はそれなりにあったらしい。ラーメン屋台はタクシーの運ちゃんたちの溜まり場だった。彼らの会話はいつも社会勉強になったが、オネェさんたちの見た目と実態との乖離についての下ネタ話は特に興味深く聞いた。ラーメンは一杯350円ぐらいでなかなかいい値段だった。小学生の頃に新京極でインタビューを受けた時に「どこにお勤めですか」と尋ねられたぐらいの身体つきと面相だから、かなり遅い時刻に一人でラーメンをすすっていても怪しまれなかった。たまに鴨川辺りまで深夜の散歩をした。橋の下で浴衣掛けの汚い爺さんに付きまとわれた時はさすがに焦ったが。
 ラーメン屋台の今出川を挟んだ向かいに京都銀行があった。ますたにによく連れていってくれた、うちがやっていた洋酒卸店の従業員のおばちゃん(時には子守)は、そこからかなりの融資を店が受けていたので、利息だけで大層儲けたんやろなぁ、といつも言っていた。白川通りを挟んだ銀行の向かい側には葬儀店があった。そこの娘が近い歳だったような記憶もある。一時期、その横にますたにの支店があった。本店が満席の時に一度行ったことがあるが、チャーハンや他のメニューもあり、若いお兄さんがワンオペで頑張っていたがどれもひどい味で程なく店を閉めたらしい。
 京都銀行の横を白川通りに沿って南に行くと、和菓子屋があって夏場は冷やし飴を売っていたが飲んだことはない。その隣に肉屋があり、娘と弟が同じ小学校だったがマジで肉付きがよかった。最近某デパートの京都展で知ったのだが、別の場所に系列の高級焼肉屋があるらしい。相当儲かったのだろう。さらに南に下ると丸銀市場があった。それほど大きな市場ではなかったが結構賑わっていたのを覚えている。特に菓子屋には市場の売り手には珍しい、少し艶めかしい雰囲気の妙齢の女性がいて、今思うと京都にはそのようなご婦人が多かった。京都銀行から今出川に沿って銀閣寺方面に進むと、酒屋と医院があり、酒屋の娘とは小学校が同じで、医院の息子とは中学校が同じだった。集団登校の際に酒屋の店内に入って娘を待っていると、ご飯茶碗に温めたミルクを入れて飲んでいたのを覚えている。さらに東に進むと白川にかかる橋があり、そのたもとには床屋と飯屋があった。床屋は若い兄弟がやっていて、よく弟と一緒に行ったが、我々兄弟は色々とかなり変わっていたので、彼らはいつもクスクス笑っていた。飯屋の方はよくツケで食べた。天重かカツ重に清涼飲料水一本(大体セブンアップだった)という、ガキにしてはなかなか贅沢なものを喰っていた。そこを東に進むと我が家があり、さらに東に進むと薬局があった。そこではよく眠気覚ましの薬(アンプルや錠剤)を、隣に住んでいた祖父のツケで買っていた。ラジオの深夜放送をしっかり聴きたかったからである。祖父一家は家計にルーズだったからバレなかったのかも知れないが、とんでもない孫である。ざらざらしたハート型アンプルカッターをよく覚えている。

吉田神社から四条烏丸まで

 ますたにのラーメンを食べてから午後の用事までまだ時間があるので、来た道をゆっくり戻ろうと思って、今出川の南側まで信号を渡り、テレビで話題になった私設図書館を過ぎて、小学校の同級生の実家がやっていたバレエ教室の看板を見ながら歩いていると、吉田神社まで山を抜ける参道の入り口に差し掛かった。昔、その少し先に小さな電気屋があって、安物のステレオセットが壊れた時にそこまで担いでいき修理を頼んだが、かなり経ってどうなったのか聞きにいくと、置いたままだったので何か文句を言って持ち帰ったことがあった。夢に出て来そうな不思議なばあさんが留守番をしていたことを覚えている。

 吉田神社までの参道は、幼稚園から中学まで市電でほぼ毎日見ていた鳥居から続いている。折角の機会だと思って初めて足を踏み入れたが、最初の数分で驚いた。これは参道と言うよりも山道だ。大文字の道もそうだが、大きな通りからちょっと入ったところに自然がそのまま残っている。深い茂みに隠れたら、まず誰にも見つからないだろう。

時間帯にもよるが、妙な風体の人間とすれ違うのは恐怖である。大文字ではすれ違う時には必ず挨拶した。中東では人通りの少ない道でのすれ違いで、かなり遠くからお互いに手を挙げて挨拶するのをよく経験した。あれが敵味方識別の距離なのだと思う。その時、たまに自分の名前を名乗り合うこともあったが(ファーストネームだけだが)、面倒なのでハッサンとかサイードとか適当に大声で名乗っていた。すると大抵の場合は、握手をしてこれからの道の安全を祈念してくれる。

吉田神社への山中の参道は、進めば進むほど陽光が射さない場所が増えて来る。かなり登った辺りに少し開けた場所があるが、そこまでの間にすれ違ったのは二人の男性だけである。土曜の昼前にそこを散策するのはどういう人間なのか興味はあるが、外人さんたちもこういうところの方が京都を満喫できるはずだ。その参道というよりも迷路のような道にいきなり吉田神社の方向を指す札があった。そこから下を見下ろすと神社の「赤」がちらほら見えてきたのでそこに向かった。吉田神社は予想よりも大きな神社だった。大きな鳥居から出ると回りはほぼ京大のキャンパスで、まっすぐ進んで大通りにぶつかると東山通りだった。

 百万遍まで戻ろうと少し北上すると通りの向こうに關西日佛学館と書いてある建物が見えた。ちょっと前にそこの第二代館長を務めたジョルジュ・ボノー(1897-1972)の小説『三福』をGallicaから落として幾つかの箇所を調べたことがある。ボノーは日本文学の専門家で九州と京都の帝大の教授だった。『三福』は彼が住んだ博多の花街を舞台として日本女性の生き様を描いた小説である。もうひとり、そこの関係者でジャン=ピエール・オーシュコルヌという人がいて何回かあったことを覚えている。彼は神戸領事を務めたアルマン・オーシュコルヌの息子として1908年にパリで生まれ、京都には71歳で帰国するまで住んでいたらしい。父が「オシコルヌ」さんを紹介してくれた時は小学生だったのでどこの誰だか知らなかったが、戦時中に投獄されて話題になったり、民藝をフランスに広めた有名人だったらしい。

 百万遍の手前にバス停があり、四条まで行くバスが通るようなので烏丸まで歩くのはやめて、四条高倉まで行くバスに乗った。吉田山でかなり疲れていたこともある。四条通りは相変わらずの人混みで、よせばいいのに土産ものを探しに錦市場に行ったのが大失敗だった。外人さんばかりの満員電車状態で、横道から逃げるのも大変だった。近くの八百屋にいつも珍しいもの並べられているのだが、その時は破竹が並べられていた。どう考えても普通の家庭で調理しそうもない。そこから近くの投宿先に戻って夕刻の仕事に備えてひと休みした。

四条烏丸から東山七条の往復

 仕事先は東山七条だった。そこへも四条烏丸から歩くことにした。烏丸通りをひたすら南下していると、途中で若いフランス人の蓮っ葉娘の二人組がいて(服装と話し方ですぐわかる)、五条辺りまでだらだらと歩いていた。六条を過ぎてしばらくして自転車屋の角を東に折れて小道に入り、そこからまた南下すると七条通りにぶつかる。その後は東に進むだけである。すぐに大きな通りと交差していると思ったら七条河原町だった。河原町は比較的知っている通りではあるが、松原辺りまでしか記憶がなく、七条と交差するような「南側」を歩いたことが今までなかった。そうこうするうちに高瀬川にかかる橋を渡り、すぐに鴨川に至る。博物館や三十三間堂がこの辺りにあることすら知らなかった。東山七条の某所で用事を終えたあと、認知症の老犬の介護に苦労している長年の知り合いの愚痴を聞きながら京阪七条まで歩き、京阪電車に半世紀ぶりぐらいに乗って京阪四条で降りて、投宿先までかなり歩いた。この日歩いた距離は最近では最長ではないかと思う。

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