見出し画像

サウンド・シティ・スタジオについて 

1969年に営業を開始し、2011年に閉鎖。2017年から営業再開したアメリカはロサンゼルスにある名スタジオ、サウンド・シティ・スタジオ

画像5


恐らく、ロックが好きな人のほとんどはこのスタジオで録音された曲を聴いたことがあるのではないでしょうか?

2013年にはデイヴ・グロール(フー・ファイターズ、ニルヴァーナ)が監督を務めたドキュメンタリー映画、『サウンド・シティ-リアル・トゥ・リール』も制作されました。今回はそんなサウンド・シティ・スタジオとそこで生まれた音楽について書いていきたいと思います。


サウンド・シティで作られた音楽


まず、サウンド・シティ・スタジオで生まれた音楽にはどのようなものがあるか見ていきましょう。


画像6

『Nevermind』、『Fleetwood Mac』...と適当に9枚並べてみただけでも壮観ですが、これ以外にもドクター・ジョン『Dr. John’s Gumbo』、ウィーザー『Pinkerton』、チープ・トリック『Heaven Tonight』、スリップノット『Iowa』など数多くの名盤がレコーディングされました。

元々このスタジオに興味を持ったのが、昨年にこのスタジオで録音された、ボブ・ディランの17分に及ぶ大曲「Muder Most Foul」とそれを収録したアルバム『Rough and Rowdy Ways』がリリースされたのがきっかけで、調べるとニール・ヤング、リンジー・バッキンガムとスティーヴィー・ニックスが加入以降のフリートウッド・マック、トム・ペティ、ニルヴァーナ、レイジ、レッチリ、QOTSA、メタリカ…と僕の想像する「アメリカのロック」が目白押しでここを探ると面白そうだなと思い、ドキュメンタリーとか買って見てみると、さらに興味が出てきて、文章にしたいなという思いに至ったわけです。

では、サウンド・シティ・スタジオの歴史について見ていきましょう。



~1970年代


1969年にオープンしてから間もなく、ニール・ヤングが『After the Gold Rush』の制作のためにスタジオを訪れます。既にアルバムの大部分を自宅で録音しており、8曲目のピアノバラッド「Birds」の録音をサウンド・シティで行います。ニール・ヤングはボーカルの音を気に入り、そこで他の曲のボーカルの大部分を録り直しました。


その後、スタジオにとって大きな転機が訪れます。経営を成り立たせるため、バンドを呼び込む顔を作ろうと、世界中で評判が高いニーヴのコンソールを導入するのです。同じタイプのものは他に世界に4台しかないといわれる特注のニーヴ・コンソールを得たことでサウンド・シティ・スタジオの歴史がここから本格的に始まります。

画像2

サウンド・シティが導入したコンソール、NEVE8028。

新たなコンソールを使った初めてのアーティストはリンジー・バッキンガムとスティーヴィー・ニックスのデュオ、バッキンガム・ニックスでした。

画像6

1973年リリースのバッキンガム・ニックスのアルバムは一定の評価を受けますが商業的には成功せず、彼らはレコード契約を打ち切られてしまいます。

その時期にアメリカで再スタートを図ろうとしていたフリートウッド・マックのリーダーのミック・フリートウッドがたまたまプロデューサーのキース・オルセンからバッキンガム・ニックスの音源を聴かされます。リンジーのギターを気に入ったミックはその直後にギターのボブ・ウェルチの脱退もあり、リンジーを新ギタリストとして誘い、新生フリートウッド・マックが誕生します。

そうして出来上がったのが10枚目となるセルフタイトル作『Fleetwood Mac』であり、そこから「Rhiannon」などのヒットシングルが生まれ、アルバムもビルボード1位を獲得。『Fleetwood Mac』のヒットを受け、グレイトフル・デッド、REOスピードワゴン、フォリナーなどのバンドがスタジオに集まっていきます。


その中の1人だったのがトム・ペティで、ハートブレイカーズと共に3枚目のアルバムを制作するためにサウンド・シティへ向かいます。トム・ペティはブルース・スプリングスティーンの1975年のアルバム『Born to Run』、パティ・スミスのヒットシングル「Because The Night」を気に入り、そのエンジニアであったジミー・アイオヴィンをニューヨークから呼び寄せます。

スタジオでの試行錯誤とジミーとバンドとの緊張関係、ライブ録音のため何度も何度も(本人たちによれば100〜150回以上)「Refugee」や「Don’t Do Me Like That」を繰り返し、『Damn the Torpedose』を完成させます。後に音楽ビジネスで大成功するジミー・アイオヴィンがアルバムを売り込みまくった結果、大ヒット。ちなみに、当時スタジオに遊びに来ていたスティーヴィー・ニックスがジミーに出会って付き合いだしたことでジミーはトムからスティーヴィーのソロシングル用に曲をもらい、コラボさせるのですがそれはまた別のお話。


チープ・トリックやリック・スプリングフィールドなどのパワーポップの名曲、名盤もこのスタジオから出てきますが、1980年代に入ると、LAにおけるHR/HMの名スタジオとしてのサウンド・シティが顔を覗かせていきます。



1980年代


1983年、レインボーやブラック・サバスのボーカルとしても活動していたロニー・ジェイムス・ディオが自身のバンド、ディオを率いての初のアルバムでヘヴィメタルの名盤『Holy Diver』を、1984年にはモトリー・クルーと並ぶLAメタルの代表的バンドのラットが1stアルバム『Out of the Celler』をサウンド・シティで録音。ざらついて太く迫力あるドラムや歪んで前面に出ているものの耳に痛くはないギターなど80年代のHR/HMとはいっても二―ヴの特注コンソールを通した音には他には無い魅力がありました。



1985年には日本からラウドネスが本格的な海外進出のために初の全編英語詩のアルバム『THUNDER IN THE EAST』をサウンド・シティで制作します。『THUNDER IN THE EAST』はビルボード74位まで浮上。日本の音楽がアメリカで受けた例としてYMOなどと共に真っ先に挙げられるなど、海外で一定の成功を収めました。

画像1

また、1stアルバムをリリースする前のガンズ・アンド・ローゼズがライブ録音するなど(1986 Sound City Sessionとして『Appetite For Destruction』のスーパー・デラックス・エディションに収録)、80年代にサウンド・シティ・スタジオはその最盛期を迎えます。

一見、順風満帆なサウンド・シティ・スタジオですが、80年代後半から経営面でピンチを迎えることになります。デジタル・サウンドやゴージャスなレコーディング・スタジオの流行が80年に入る時期ですらスペックの見劣りが見られたニーヴ・コンソールや昔ながらのレコーディングを武器としていたサウンド・シティにとって大きな逆風となります。

これ以降のポイズンやデフ・レパードなどの80年代後半にメガヒットを飛ばしたHR/HMの音はディオやラウドネスのそれと比べて自然なロックサウンドでは無くなった印象がありましたが、サウンド・シティの動きを追うことでその違いが段々と理解出来てきますね。

スタジオの人気が無くなってきたことだけではなく、スタジオオーナーのジョーがリック・スプリングフィールドに続く新人の発掘にお金をかけすぎたことも経営面で行き詰った原因でした。

1991年、昔からスタジオを支えてきたスタッフたちが離れていく中でサウンド・シティも終わりかと思われた、そんなときに現れたのがニルヴァーナでした。


1990年代

ニルヴァーナが『Nevermind』の制作のためにサウンド・シティで過ごした16日間がバンドとスタジオの未来だけでなく、90年代以降のロックをも大きく変えてしまいます。

『Nevermind』はグランジと呼ばれる70年代ハードロックにパンクの生々しいエネルギーを同居させた、80年代の完璧志向のメインストリームロックへのアンチテーゼとしてのサウンドで巨大な成功を収め、多くのバンドが「ニルヴァーナが『Nevermind』を録った場所」に集い始めます。

その中の一つがレイジ・アゲインスト・ザ・マシーン。セルフタイトルの名盤『Rage Against the Machine』を1992年にリリースしますが、その録音手法はメンバーの友達をスタジオに集めて、その場で演奏するというもので、一晩で一気に録られた音のエネルギーはザック・デ・ラ・ロッチャの政治的で攻撃的な詞と相まって、リスナーに大きな衝撃を残しました。

他にもストーナーロック黎明期の雄であるカイアスマスターズ・オブ・リアリティ、プログレッシブメタルバンドのトゥールなどがサウンド・シティでレコーディング。

さらに1994年頃からサウンド・シティ・スタジオを使用しだしたのが名プロデューサーのリック・ルービン

画像4

スレイヤーレッド・ホット・チリ・ペッパーズジョニー・キャッシュシステム・オブ・ア・ダウンなどのアルバム録音の場にサウンド・シティを選びました。恐らく以前からサウンド・シティをよく利用していたトム・ペティの1994年のアルバム『Wildflowers』をリック・ルービンがプロデュースしたのがきっかけなのではないかと思います。

ジョニー・キャッシュのアメリカンレコーディングシリーズの2作目、『Unchained』(1996) になぜトム・ペティとハートブレイカーズが全面参加しているのか、なぜリンジー・バッキンガムやレッチリのフリーがここで出てくるのかの鍵がサウンド・シティにあったということなんですね。

1996年、ウィーザーの2作目『Pinkerton』がサウンド・シティで完成。ボーカルのリヴァース・クオモは熱烈な80’sのハードロックファンとして知られ、もしかするとそこからこのスタジオでレコーディングすることを決めたのかもしれませんが、結果できあがったものは彼の鬱屈とした感情がハードなギターに乗せられたエモーショナルな作品となり、サウンド・シティはその生々しい感情を克明に記録しました。1999年にはジミー・イート・ワールドがエモ・ロックの傑作『Clarity』をサウンド・シティで録音しています。


2000年以降にはカイアスのギターでもあったジョシュ・ホーミが結成したクイーンズ・オブ・ザ・ストーン・エイジ(以下QOTSA)によるストーナーロック初のヒットアルバム『Rated R』と『Songs for the Deaf』もサウンド・シティから出てくるなど、ニルヴァーナの大成功が時代に取り残されて世紀を跨ぐはずの無かったスタジオを存続させ、ニルヴァーナの音に共鳴したバンド達がそれ以前に負けず劣らずの名盤を録音していきました。

しかし、ニルヴァーナ以降に集まったバンドを見ていくとストーナーや70年代的なハードロックというキーワードが光りますが、なぜこのような音楽性のバンドがサウンド・シティで録音したのを好んだのでしょうか?

僕がたまたま古本で購入したレコード・コレクターズという雑誌のニルヴァーナ特集号では『Nevermind』が80年代を葬り去る一撃となり得たのはヒップホップに負けないほどの最良のグルーヴがあったからだという記述がありますが、これがストーナーロック勢やレイジ、リック・ルービンをこのスタジオに引き寄せた遠因ではないかと感じます。

ストーナーロックとは延々と繰り返される重いギターリフが特徴的で、反復するリズムに沈んでいくようなその独特のサイケ感は薬物中毒者を意味するストーナー(stoner)に例えられるところから名前がとられたロックのサブジャンルです。重いリフ中心の音楽のためそれを支えるドラムやベースには強靭なグルーヴが必要とされますが、カイアスなどのストーナーロック勢はニルヴァーナからそれを感じ取っていたのかもしれません。

実際、『Nevermind』のレコーディングでは低音を増強するためにちょっと変な手法がとられたようで、バスドラムに穴の開いたドラムケースをつなげ、トンネルのように胴の長さを延長してキックの音を録音したようです。

ニルヴァーナの地を這うような重心の低いグルーヴが他のアーティストに大きな求心力を持ったと考えるとビースティ・ボーイズやRun DMCなどのヒップホップの仕事で著名なリック・ルービンやラップ・メタルというジャンルを確立させたレイジが反応したのもうなずけますし、ニルヴァーナの音楽がヒップホップのアーティストからも支持を集めている理由がグルーヴという視点から見えてきそうです。

また、ニルヴァーナとヒップホップのつながりの話になると『Nevermind』のマスタリングを担当したハウイ・ウェインバーグにも触れておかなければなりません。それ以前にLL Cool JやRun DMCといったヒップホップのアルバムのマスタリングの経験があるエンジニアです。この人はニルヴァーナと同時期に、サウンドガーデンやパンテラといったそれまでのHR/HMよりもよりグルーヴに重きを置いたバンドの作品のマスタリングにも携わっています。


1986年リリースのビースティ・ボーイズのデビューアルバム『Licensed to Ill』の1曲目「Rhymin & Stealin」。プロデュースはリック・ルービン。レッド・ツェッペリンのジョン・ボーナムのドラムとブラック・サバスのトニー・アイオミのギターリフをサンプリングしている。白人リスナーの興味を引くためという見方もあるが、ニューヨークのパンクシーンをたむろしていた青年によるメインストリームでは失われつつあったロックのグルーヴへの愛が伝わってくる。ツェッペリンやサバスはニルヴァーナとレイジの強い影響源でもあった。マスタリングはハウイ・ウェインバーグ。


ニューヨークのラッパー、エイサップ・ロッキーのライブ中の一場面。他に最近のラッパーだと故XXXTENTACIONやThe Kid LAROIなど人種問わず多くのラッパーがニルヴァーナが好きだと公言している。


リンク先の映像は削除されているがヒップホップの伝説的プロデューサーのドクター・ドレーがニルヴァーナの「Stay Away」をかけて最も好きなロックバンドだと語っている。その映像が収録されたドキュメンタリー、『

2000年代

21世紀に入った2001年、ロックはメインストリームではニューメタルやヘヴィロック、アンダーグラウンドではガレージロック(ロックンロール)リバイバルへと時代は動いていました。

そんな中、同年に発表されたスリップノットの『Iowa』と「東のストロークス、西のBRMC」と呼ばれた(らしい)ブラック・レベル・モーターサイクル・クラブの『B.R.M.C.』はともにサウンド・シティでレコーディングされた作品ですが、聴かれたシーンこそ違うもののグルーヴの感触は似通っています。『Iowa』の15分に及ぶ大曲である最終トラックはドゥーム、ストーナーの感触がありますし、『B.R.M.C.』の「Spread Your Love」は2021年の今聴くとガレージロックというよりむしろテーム・インパラの1stを思わせるようなストーナー/サイケ感に耳を惹かれます。


2004年にサウンド・シティにやってきたのがナイン・インチ・ネイルズ。1999年の『The Fragile』に続くアルバム『With Teeth』の録音のためでした。


『With Teeth』はそれまでと比べかなりバンドサウンドの色が濃い作品となりましたが、当時のトレント・レズナーのアナログ、ローファイ志向にはサウンド・シティが絶好のスタジオだったのでしょう。『With Teeth』の数曲にデイヴ・グロールがドラムで参加しており、クレジットには名前はありませんが、アルバム制作にあたってトレントがリック・ルービンを「良き指導者」であり「インスピレーションの源」と語っていることもサウンド・シティとの結びつきを感じさせます。

2005年にはオーストラリア出身のハードロックバンド、ウルフマザーがセルフタイトルのデビューアルバムをレコーディング。ツェッペリンやサバスなどの70年代ハードロックの影響を受けたサウンドで、世界的にヒットを飛ばし、グラミー賞を受賞するまでになりました。

2008年にはメタリカがリック・ルービンをプロデューサーに据えてアルバム『Death Magnetic』をレコーディング。

90年代からレコーディングがどんどん容易になり、伝統的なスタジオの多くが閉鎖する中、LAの古ぼけたスタジオは失われていったかつてのロックサウンドを志向するバンドにとって良心的な存在であり続けました。

しかし、時代の波は無情にも再びサウンド・シティに襲い掛かってきます。


2010年代~

サウンド・シティ・スタジオにとって最後の2年となった2010~2011年の間にも、デス・キャブ・フォー・キューティーなど多くのレコーディングが行われました。

2011年、サウンド・シティにとって最後の年にイギリスからやってきたバンドがアークティック・モンキーズでした。彼らはデビュー当初の高速ギターロックから2009年の3rdアルバム『Humbug』でジョシュ・ホーミをプロデューサーに迎え、グッとテンポを落としたグルーヴィーなスタイルに路線を変更。4作目となる『Suck It and See』では当時ピッチフォークなどで絶賛されていたインディロックバンド、ガールズに影響を受けたソングオリエンテッドな作風でLAの爽やかな雰囲気を甘酸っぱいメロディ―で上手く表現していますが、「Don’t Sit Down 'Cause I've Moved Your Chair」などの曲にはストーナーの香りを漂わせています。


カリフォルニアで生まれたGファンクとブラック・サバスを融合したようなサウンドの5作目『AM』でアークティック・モンキーズは世界的大ヒットを果たしますが、そこには『Suck It and See』におけるサウンド・シティでの経験があったからこそなのは言うまでもないでしょう。


2011年、惜しまれながらもサウンド・シティはその42年の歴史に幕を閉じることになります。

決定的だったのは録音に不可欠なレコーディングテープの生産が終了したことでした。ニール・ヤングから始まり、フリートウッド・マック、トム・ペティ、ニルヴァーナなどの名盤を記録したスタジオとコンソール、数多のヴィンテージ機材はその姿を消すはずでした。


スタジオを閉めるという連絡を受けたデイヴ・グロールはニーヴのコンソールを譲り受け、サウンド・シティ・スタジオの歴史をドキュメンタリー映画として映像に残します。

それが、2013年に公開された『サウンド・シティ-リアル・トゥ・リール』です。ニーヴのコンソールはデイヴの個人スタジオ、Studio 606に移設されましたが、映画にもそのシーンが出てきます。

映画『サウンド・シティ -リアル・トゥ・リール』はデイヴによるサウンド・シティへの最後の恩返しのようなものでしたが、この映画は思わぬところに影響を与えていきます。

日本のロックバンド、ASIAN KUNG-FU GENERATION(アジカン)の後藤正文(ゴッチ)がこの映画を見たということもあり、デイヴのスタジオまで赴き、アルバム『Wonder Future』をレコーディングします。

――デイヴ・グロールの試みに共感する部分もありましたか。                    後藤:本当に素晴らしいと思うし、あのアメリカですら、川の流れみたいに文化や技術、音楽の歴史を繋げていく作業が必要なんだってデイヴは思ったんでしょうね。僕もロスに行って、フー・ファイターズのスタジオを使いたかったのは、自分が好きだったロックの歴史に繋がりたい気持ちがあったんです。                                                                                                            ――ロックの歴史に繋がりたい気持ち?                                                        後藤:自分達が使わせてもらったのは、ウィーザーの『ピンカートン』とか、アッシュの『メルトダウン』とか、レイジ・アゲインスト・ザ・マシーンとかレッド・ホット・チリ・ペッパーズとかニルヴァーナとか、そういう自分が好きだったバンドの作品が作られた機材なんです。で、そこにはその機材を扱うための技術や文化が張り付いているわけで。それと繋がりたい気持ちがあったんですよね。その流れの川下にいたい。デイヴにも、そういう気持ちがあったんじゃないかと思います。いわゆるアメリカのポップミュージックの歴史の川下にいるという意識。だから、あれは表敬訪問のような感じだったと思うんです。一方で、俺たちのやったことは、日本人として、影響を受けてきた音楽の血を受け継ぎにいくような、そういうことをしたいと思っていましたね。

このゴッチのインタビューを読んでて面白いのが「ロックの歴史に繋がりたい」と言いながらも、そこで挙がるアーティストは90年代以降のいわゆるオルタナティヴ・ロックだということです。70年代前半に作られた機材を使用したのにも関わらず。
ゴッチ本人は言葉にしていないだけだと思いますが、ニーヴ・コンソールでニルヴァーナと繋がるということはトム・ペティやフリートウッド・マックと繋がるということでもあり、「歴史は螺旋状に進む」という言葉を想起させられます。

サウンド・シティ・スタジオ自体は営業停止後、Fairfax Recoingsというレーベルに貸し出され、レーベル所属のアーティストのレコーディングに使われたようです。2012年にフォークロックバンド、ザ・ルミニアーズが世界的ヒット作であるセルフタイトル作をレコーディングし、シングル「Ho Hey」は全米3位、2013年の全米年間チャートで12位に入るなど大成功を収めます。


2017年、元のオーナーの親族がサウンド・シティ・スタジオの一般向けの営業を再開させます。

もちろん、元のコンソールはデイヴのスタジオに置かれたままですが、再オープンしたサウンド・シティにも名機として名高いヘリオスのコンソール(世界に11台しか現存していない)が2台備えられており、スタジオAのヘリオス・コンソールはレッド・ツェッペリンやブラック・サバス、ボブ・マーリーなどのレコーディングにも使用されたもののようです。

スタジオにはPro Toolsも導入されたようですが、基本的には昔ながらのレコーディングを心掛けているそうです。

その後、2019年にビッグ・シーフの『Two Hands』、2020年にフィービー・ブリッジャーズの『Punisher』パフューム・ジーニアスSet My Heart on Fire Immediately』とその年を代表するインディロックの名作がサウンド・シティを通じて出てきます。


2020年6月、ボブ・ディランが8年ぶりとなるアルバム『Rough and Rowdy Ways』を発表。『Rough and Rowdy Ways』、『Punisher』、『Set My Heart on Fire Immediately』の3作とも音楽メディアの年間ベストアルバムランキングをポイント化して集計するサイト、AOTYで2020年のトップ10に入るなど批評的にもこのスタジオは注目を集めています。

https://www.albumoftheyear.org/list/summary/2020/


現在はアラバマ・シェイクスのプロデュースでグラミー賞を獲得した経験のあるブレイク・ミルズがこのスタジオを長期的に使用しており、彼の関連作などでも現在のサウンド・シティの音を聴くことが出来ます。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?