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ひとり脳内対話活動

久しぶりに投稿。
コロナ禍、普通ならおとなしく行動制限、stay homeなのでしょうが…
なぜかとても忙しく、コラボ公演などさせていただきを動き回っていた。

コロナが落ち着き、皆さんがようやく動き回るようになった今年の夏からなぜか少しずつ
余裕がでてきて、忙しくて後回しにしていた身辺整理を始めている。
アトリエの掃除、SNSの見直し、リニューアル
などなど…
なぜなんだ?と最初は不思議だったが、これからのISSUI  UMEDAの準備なのだと思っている。

閑話休題…
先日、日本語学校の授業で
「表現」について考えるというテーマで
授業をした。

「表現するという行為は、他者を説得するとともに納得してもらい、結果として相手と価値を共有する行為です。(中略)つまり、暴力に訴えない、ことばの活動として誰にでも必要な相互関係構築の行為なのです。」
(細川英雄『<自分のことば>をつくる』)
日本語学校の授業テキストから抜粋。

ここでいう「表現」とは、ことばでの表現活動であり、ことばをツールとして築く人間関係について述べられている。
さらに、この文章の先を読み進めていくと

「…相手の要求を受け止めつつ、自分の考えを表明することができるようになることが表現活動の基本的な姿勢だろうと思います。だからこそ、表現は対話活動だという認識が必要になります。」

とでてきた。
授業をしながら、これは言葉の表現活動だけでなく、違うツールを使う表現活動にも通ずるな…と考えていた。
つまり、私でいえば、花を持って表現することだし、絵を描くであったり、写真であったり、身体で表現するなども。

何か作品をつくるとき、まずは自分のなかの
イメージがあり、それを作り上げていくのに
観る人にわかるよう、自分のイメージを伝えたいと少なからず考えて作っている。
出来上がった作品を観た人が私のイメージ通りに受け取っているかというと、そんなことはほとんどなく、でも、それが楽しい。

作品は、完成した時点で私からは離れる。私のイメージは私のであって、別に正解とかではない。観た人のイメージ、それぞれがその人の正解であり、大切なのは、観たことにより影響をうけ、イメージが湧き上がり、それを自分で考えるということなのだ。

作品の制作者と直接に対話は、個展で在廊でもしてない限り、なかなかできない。
まして、歴史的な作品なら、制作者はこの世にいないことの方が多い。

「表現は対話活動なのである。」

まさにそれ。ただし…
制作者との対話でなく、自分自身との。
なぜそう感じたか、どこにそれを感じたか、
感じてイメージしたものは何か、そして、どんな衝撃をうけたか

ひとり脳内対話活動

これは、なんと楽しい活動ではないか。

制作者は、ひとり脳内対話活動をさせるような作品をひとつでも創り上げなければなと。
それには、私自身もひとり脳内対話活動をしなければいけない。

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