「生きる」とは

ヴィーガンとは、エシカルとは、サステナブルとは、
と、聞き慣れないカタカナが少しずつ世間に浸透し始め、
メディアや市場にもそれらの言葉が流通し始めた昨今。

自分もそのような言葉に想いを馳せるようになった1人。
大きなきっかけは、友人がヴィーガンになった、という話。
ヴィーガンになった背景を聞いて、自分の思慮の浅さに衝撃を受けた。
ヴィーガンになった一つの理由として、動物愛護があった。
それを聞いて、私は自分以外の他者に対する配慮が圧倒的に足りていない、と感じた。

子供の頃から、出されたご飯を食べる。
買い物について行けば、パッキングされている食べ物、として売られている商品を選ぶ。

こんな環境で育った人が、食べ物がどうやって目の前に並ぶのか、想像できるわけがない。
今現在、自給自足生活をしている人でない限り、ほぼ全ての人が想像できない人に当てはまるはずだ。

食べ物がどうやって私たちの前に並ぶのか、想像ができたとして、
私たちが取るべき行動はなんだろう?
(ここからは動物について考える、植物には生命がないのか、という問題に関してはここでは触れないことにする)

ヴィーガンの方のように、食べないという判断。
生き物に感謝して、ありがたく頂くという判断。

私の考えは、どちらも正しい。
また、どちらの判断を取った人も、一方の判断を批判する権利はあるのだろうか…。

もし、動物性商品を食べないという判断をしたら、
動物性商品に携わる人にお金を落とさないことになる。
消費行動は、投票と同じだ。
私は、動物性商品を支持しない。という意思表示だ。
それも一つの選択肢。
牧場や食肉に携わってる人たちはどう生計を立てるのか、という反論がくるが、
これに関しては自分の中で答えがまだ出せない。たしかに一理あると思う。

もし、生命に感謝して動物性商品を頂く判断をしたら、
動物の生命を無駄にしなかったことになる。
他の生命を何一つ犠牲にせず生きている人間なんていない。
それは自然の摂理に則ったことでもある。

どちらの行動にも整合性はあるように感じるし、
間違った行動だとは思わない。

だが、これらの問題に目を向けず、盲目的に消費する生活を私は選びたくない。
人間は思考することができる生き物だし、
思考することで生活を豊かにしてきたはずだ。

生産者や、加工する人たちにとっても、ポリシーを持って仕事している人がたくさんいる。
猟師は、必要以上の狩りを決してしないし、
狩った獲物は、何一つ無駄にしない。
肉はもちろん、皮、角、骨、全てに意味を持たす。

皮を加工する業者だって、
例え人工皮革や、植物性皮革が作られるようになっても、
食肉文化がなくならない限り、皮の加工をやり続けなければ
皮が無駄になることになってしまう。
そういう考えを持って、皮を加工している。

こういった方達は、自らが生きていくために
他の生命を頂いている、という考えが根底にあり、その上で仕事をしている。

まずは、そのことについて知るべきだ。
そして、その考えを知ることは、本質的に「生きる」とはどういうことか、考えるきっかけになるのではないか。

私たちは文化的に生きる人間だが、
それ以前に動物である前提を忘れてはいけない気がする。
お金や物、愛などを欲して生きる人間が、
生物として生きる上で必要なことは何か。
昨今の気風は、そういうことを見つめ直すいい機会なんじゃないかなー。

そして、見つめ直した結果、各々が取る行動に
正しさや間違いを押し付けるのではなく、
それぞれを尊重し、認め合う世の中になればいいな、と思う。

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