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英文仏教書講読The Art of Solitude(第8回:4章)

英文仏教書講読The Art of Solitude第8回目です。第4章の講読。渡部るり子さんの翻訳文は以下のとおりです。動画と合わせてご覧ください。

英文仏教書講読The Art of...

Posted by 松籟学舎一照塾 on Tuesday, September 21, 2021

4章

メキシコ・テポストラン、2013年11月
ナチョ、その息子のナチョと共に三菱パジェロに乗り込んで村を出発し、古くからインディアンの町であったテポストランを取り囲んでいる森に覆われた丘を登っていった。その日はほとんど何も食べていなかったので、少し頭痛がした。途中、マラアカメ(mara’akame、メキシコ・ウイチョル族のシャーマン)であるドン・トーニョと彼の見習いであるアンドレ、ホセ-ルイス、ラウルを乗せた。サン・ホアン(San Juan)という村の農家に寄り、メタテという軽石のような素材でできている長方形の平らな板を積み込んだ。にわかに会話が活気づいたので、重要なものだとは思ったが、なぜかは想像もつかなかった。
 森の中での急勾配の舗装されていない道に入った頃には、夜になっていた。泥や葉っぱでタイヤが空回りし、SUVがスリップして唸っていた。車から降りて押してみたが、全く駄目だった。それで、ブランケット、ポンチョ、物で一杯の買い物袋、メタテを車から降ろし、分担して持ち、車の不安定なライトをたよりにとぼとぼと歩き始めた。湿った空気の中に、吐く息がみえた。
 単純で、大雑把に作られた構造物のある開けた場所に出た。丸く配置された木の柱が、トタン板でできたとがった屋根を支えていた。端を取り囲む低い壁以外には、その場所は外と繋がっていた。打ち付けられた泥の床の真ん中には、灰と炭の残りのある穴があった。中に入って荷物を下ろし、儀式の薪を集めるために外に出た。
 誰も急いでいるようには見えなかった。おしゃべりしたり、ジョークを言ったり、たばこを吸うものもいた。一時間ほどかけて、十分な量の枝や丸太を引きずってきて丸いスペースに集め、火を起こした。マラアカメは、ブランケットを広げ、座り、買い物袋の中身を出し始めた。羽のついた道具が彼の周りに置かれ、タッセルのついた帽子、ハンドドラム、安っぽいロウソクの箱、カップ、最後に、大切そうに白い布にくるまれたものが出てきた。
 もう一つの袋から出てきたもので、アンドレは簡単な祭壇を作った。印刷されたグアダルーペの聖母(Madonna of Guadeloupe)の紙の前に、ろうそくとオレンジを置いた。その祭壇の前に、準備するように言われていたテキストを置くようにと各人に促した。当日の朝、私は手書きでフォー・エイツ の三番目の詩を書いた。その最後の節は、「分け隔てのない僧とは」と始まる。
何によって有名であるとか、注目されているといったことに執着せず
情熱的というわけでもなく、かといって情熱がないというわけではなく
何事も絶対であると断言しない
フォー・エイツ(八偈品) 3:8より
私はこの思いに正直でありたいと願う。できる限りの敬意を払い、折りたたんだ手書きの紙を聖母の前に置いた。
 ドン・トーニョが彼のところに来るようにと合図をした。彼は、背が低く、ずんぐりして、肌が黒く、メキシコでよく見かける農夫のようであった。パラフィン油のランプの黄色い光の下で、包まれた布を開き、前日にアンドレと砂漠で取ってきたばかりのペヨーテサボテンを半ダースほど取り出した。ふっくらとして、くすんだ緑色の学名・ロフォフォラウィリアムシイ(Lophophora williamsii)は、直径10センチほどで、6つの対称的な部分からできていた。マラアカメが切って中身を開き、めいめいに回した。初めての私には、サボテンの果肉から、中の繊維をどのように取り除くのかを見せてくれた。このやっかいな作業をしてから果肉をメタテの上に置き、円柱状の石で叩くと、底にある突き出た漏斗から下のボウルに果汁が流れ落ちるようになっていた。
 果汁を水で薄め、それから、儀式らしくなく、使い捨てのプラスチックのカップに入れた。めいめいが一杯を飲んだ。周りの様子にあわせて、私も飲み干し、残りの果肉を指ですくった。少し苦みがあったが、嫌な味ではなかった。冷たい液体が空腹を満たしていくのを感じた。
 マラアカメがなぜこの儀式に参加したのかを私に尋ねた。私は、今年六十歳になり、これまでに経験したことを棚卸しして、過去40年間かけて仏教を学び、実践し、教えるなかで達成したことを一歩下がって振り返りたいのだと伝えた。若い頃に幻覚剤を使用したときの経験が、仏道へと向かわせることとなったので、再び経験してみようと決意したと話した。今は、一人で、あるいは友人と錠剤を飲むというよりも、シャーマンの導きの元に、他の知らない人々と共に、宗教的な儀式で、こういった物質を摂取することに関心がある。
 私たちは火のまわりに丸くなって座った。炎は激しくぱちぱちと音を立てていたが、あまり熱くはなかった。私は足を組んで座り、粗いウール糸がきつく織られた赤いポンチョをきていた。少し離れてマラアカメは地面に座り、鮮やかな青いブランケットを掛けて、眠り始めた。若い方のナチョが、ドラムでシンプルなリズムをたたき始めた。
 最初の1、2時間は -といっても時計がなかったので時間の経過の感覚は殆どなかったものの- 何も起きていないとわかっていた。少し消化不良で、時々げっぷが出るとすりつぶしたサボテンの味がした。確かに、静けさと明晰さは経験したが、これまでの瞑想の実践を同じ時間行ったのと同じ程度だった。見回しても、誰も問題が起きているような様子はなかった。低い声で話し、足を伸ばしたり、しばらくドラムを叩いたりしていた。この新しい薬物では何も経験することができなかったことに、胸をなで下ろした。

(第9回に続く)

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