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英文仏教書講読 The Art of Solitude(第6回:1章、2章)

英文仏教書講読The Art of Solitude第6回。第1&2章を読んでいきます。
渡部るり子さんの翻訳文は以下のとおりです。動画と合わせてご覧ください。

英文仏教書講読The Art of...

Posted by 松籟学舎一照塾 on Monday, August 30, 2021


1章

 夏になると、夜10時まではまだ明るく、日のある時間が長いイングランドの田舎でも、母は二人の息子を早く寝せることにしていた。私は正しいことではなく、意味がないと感じていた。眠れないまま眼を閉じると、パジャマを着てうつ伏せになっている体が、寝室の壁を登ったり降りたりして、天井に向かって浮かび上がり、思い通りの場所に降りていくという想像をしたものである。ベッドに横になっていたというよりも、間違いなくあのあり得ない場所にいたのだ。毎晩自分を操縦しながら、そのことを非常に真剣に捉えていた。誰にも話したことはなかった。純粋なる孤独の実践だったのである。
 もう一つ眠れない夜に想像したのは、この世のものではないものをただひたすら味わうということであった。美味しいとか美味しくないということではなく、とにかくこれまでに知っている味とは全く異なる味である。どこからこんなことを思いついたのかは全くわからないが、深い親しみを持っていた。はるか昔に味わった感覚は遠く、つねに薄らいでいったが、今でも呼び起こすことができる。
 そして空を飛ぶ夢も何度も観た。ほんのわずかな力であっという間に浮かび上がり、思い通りに下降したり、上昇したりできたのである。眼下の景色は、昼間の太陽に照らされ、沢山の色にあふれ、隅々まで鮮やかに見えていた。よく夢を見る者として、空を飛ぶ夢は他の夢よりも現実に近く感じることに気がついた。空を飛ぶ夢が始まると、夢を見ている私は嬉しくなった。目が覚めると、そこから重苦しいところに投げ込まれてしまったと、飛んでいたことを懐かしく思い出すのであった。
 考えることをやめるようにできる限り努力することもあったが、いつも失敗することが悩みになった。洪水のように思考が押し寄せてきて、どうしようもなかったのである。あるいは、心配なくいられる時を求めて、一日中起きるという手段を選ぶこともあった。自分が「幸せ」だと思うとき、その近くに淡く不安の影が差していることに気がついていた。何かがうまくいかなくなる可能性は常にあった。
 知識もなく、導かれるわけでもなく行ったことが、今となっては瞑想ということへの初めて試みであった。自分の内面の手触りや輪郭を探ることによって、眠れない子供が、退屈や淋しさから逃れ、自分自身を幸せに満足させることができる孤独を発見したのである。トマス・ド・クインシー(Thomas De Quincey)は、「内面の世界には、隠された自意識の世界があって、それぞれの人が、その中で、二つ目の人生、自分だけの内で送る人生がある。他の人と共にある人生と平行しているのだ」と語った。学校では、この内面の世界について認めたり、ましてや取り扱ったりする先生が誰一人いないことに困惑した。仏教の僧侶に出会って初めて、戸惑ったり、ためらったりせず、この内面の領域にくつろぎ、そのことを開かれた態度で話をする人々に遭遇したのである。

2章

自分の感覚を信じ、洪水を渡れ
賢者とは、所有しているものには縛られないものだ
突き刺さった矢を抜いた後なのだから、自らをいたわれ
この世界に望まないこと、その次の世界にも
フォー・エイツ(八偈品) 1:8より
1570年、37歳のミシェル・ド・モンテーニュは、ただひたすらに一人で孤独に生きるために、それまで13年間務めてきたボルドー議会の法官の権利を売却した。領主としての城にある三階建ての要塞の塔を、隠遁所に作り替えた。一階は礼拝所、二階は生活の場とし、最上階は図書館とした。図書館の天井裏は鐘楼になっていた。彼は「毎日、日の出と日の入りには、鐘がアヴェマリアを奏で、その音に塔全体が揺れた」と書いている。
 モンテーニュは、彼の意図を壁に彫った。「現世から身を引き、自らを賢い乙女たち(Wise Virgins)の懐に委ね、穏やかで静かに余生を過ごすために」と。公務の重圧から解放され、自由で静かに愉しいことに打ち込もうとしたが、言うは易く行うは難しであった。彼は「自らの心(mind)のためにできる最も素晴らしいことは、完全に何もしないことによって、心が心をいたわり、心がおのずから停止し、落ち着く」と思っていた。実際にはそうではなく、
まるで逃走した馬がありとあらゆるところを駆けめぐるように、奇妙な幻想の怪獣が、順番も目的もお構いなしに、次から次へと現れてきた
この混乱に対処することができず、彼はうつに陥った。そして自分の内面をつぶさに観察し、分析し、「自分の心が自ら恥ずかしいと感じさせる」ことを願って書き、立ち直った。このようにして哲学者であり随筆家である彼のキャリアが始まったのである。
 混乱は彼の心だけではなかった。彼を取り巻く環境にも大きな混乱が起きたのである。8年前の1562年、フランス全土で、カトリックとプロテスタントの間に血塗られた内戦が起きた。彼の住むギエンヌ地方がこの宗教戦争の主な中心地となったため、彼の生涯にわたって絶えず争いが起きたのである。最初の年には、近くにあるモンカレ(Montcaret)の教会が、プロテスタントの部隊から取り戻そうとしたカトリックの部隊によって破壊された。彼の城から歩いてわずか5分のところにあるサン・ミッシェル・ド・モンテーニュ教会(the church of Saint-Michel-de-Montaigne)も焼け落ちた。「我々の抱える問題のために、私の住むところは、いつも最初に爆撃され、最後にも爆撃される」と書いている。「今夜こそ私は裏切られ、撲殺されるのではないか」と思いながら何度もベッドに逃げ込んだと回想している。
 モンテーニュが塔にこもってから最初の夏、シャルル9世とその母であるカトリーヌ・ド・メディチ(Catherine de Medici)が、サン・バルテルミの虐殺を引き起こした。コリニー提督(Admiral de Coligny)狙撃への復讐が起きることを恐れ、パリに滞在する全てのプロテスタントの指導者の殺害を命じた。群衆の暴動が起き、カトリック教徒が市街を暴れ回り、プロテスタント教徒を攻撃した。この虐殺は、ボルドーを含むフランスの12の都市に広がり、約1万人のプロテスタント教徒が殺害された。
 モンテーニュは、自分がもう少し若ければ、宗教改革に関する「リスクと挑戦を分かち合う」ことに誘惑されたかもしれないと認めている。エラスムス(Erasmus)のようなキリスト教人文主義者に触発され、彼はルネッサンスに象徴される理性と古典的な哲学の再興を喜んで受け入れた。彼の最も親しい友人であったエティエンヌ・ド・ラ・ボエシ(Étienne de la Boétie )は、自発的隷従論(Voluntary Servitude)の著者であり、その中で政権の専制君主的な性質について論じている。父の依頼により、モンテーニュは、15世紀のカタルーニャの医師であり哲学者であるレイモン・ズボン(Raimond Sebond)がラテン語で著した自然神学(Natural Theology)を翻訳した。ズボンは、神の理解は、自然界の観察から推論できると論じ、そのことによって信仰と理性、宗教と科学の要求を和解させるとことができるとしている。
 内戦が勃発して一年後、エティエンヌ・ド・ラ・ボエシは、赤痢のために32歳の若さで亡くなった。モンテーニュは打ちのめされた。エティエンヌへの敬愛は、彼の人生にとって、知的かつ感情的な礎であった。その友情は「魂が混ざり合って1つになり、あまりにも完璧な融合であったので、お互いをつなぎ合わせる縫い目は消え、もはや見つけられようもない」ものであったと書いている。ラ・ボエシの蔵書は、モンテーニュへの遺言により、塔の図書館の中心的な蔵書となった。私が想像するに、彼は永遠に随想録の読者とされていたのだ。
 友人の思い出に敬意を表して、モンテーニュは当初は自発的隷従論 を彼の随想録の最初の巻に入れようとして断念した。「その結果がよい方向に進むかどうかを顧みず、現在の政治体制を動揺させ、変えようとするよこしまな目的のために」既に出版されていたことを知ったためである。翻訳したレイモン・ズボンの自然神学 も、プロテスタントの思想家に好意的に受け止められ、同じ運命を辿った。結果として、モンテーニュにとって最も長く、一冊の本という長さで、この誤りを正すための随筆が生まれた。レイモン・ズボンの弁護 において、理性による救済の力を信じるズボンを否定し、あえて無知であるという姿勢を貫く哲学と無条件の信仰とに置き換えた。
 10年間、彼は塔の中で、研究し、思索し、著述した。随想録 の最初の2巻の初版は、1580年にボルドーで出版された。彼は47歳になっていた。主君に忠実な貴族としてすぐにパリへ旅立ち、新しい王であるアンリ3世に初版本を謹呈した。宮廷において好意的な印象を得た後に、スイス、ドイツ、オーストリア、イタリアの多くを周り、11月末にローマに到着した。
 ローマには、ローマ教皇グレゴリウス13世猊下へのフランス大使がまもなく退任するため、その後任になれるようにと赴いたのだった。フランス王室議会の議員であり、敬虔なカトリック信者であり、ラテン語に通じた学者であり、今や哲学者であり文筆家でもある彼は、この職に非常に適していた。ナバラ王国のプロテスタントであるアンリ王はプロテスタントであったが(ギエンヌ地方を治め、フランスの王位継承順位が二位でもあった)、モンテーニュはその議会の議員でもあったので、この宗教戦争の双方の間に立ち、交渉を担う非常に貴重な存在となるであろうと思われた。彼は大きな邸宅を借り、歴史的な場所を訪れ、教皇に拝謁し、随想録 を教皇庁に提出し、その承認を得られるようにした。そして、パリからの書簡を我慢強く待った。その書簡が、彼のその後の運命を決めることになるはずであった。
 バチカン宮殿での審査中となった随想録の「孤独について」という随筆について、彼は「野心とは、隠遁とは相容れないものである。名声と安息とは、同じ場所に収まることはできない」と書いた。彼はローマの政治家であるプリニウス(Pliny)とキケロ(Cicero)を批判した。それは、孤独をキャリア上の賢明なステップとして、学び、哲学的に洗練されることによって人々を感銘させる方法として取り扱ったためである。彼らは「彼らは、ただ手足を社会の外に置いただけである。魂と思いは社会に強く結びついたままで、その結びつきがこれまで以上に強固になっただけである。よりよい飛躍を遂げるために、一歩下がっただけである」と考察した。世間で知られるようになるということは「私の思惑からは除かれている」と断言したのである。

(第7回に続く)

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