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茅ヶ崎の秋

 或る晩、私は退屈であつ

た。古い本箱を整理すると

松村みね子譯著「愛蘭土あいるらんど

曲集」の扉に、萬年筆で書

きつけた昔の私の文章がみ

つかつた。時は師走、こん

な閑文の出る塲合ではない

が、何となく、昔の甘い、

なつかしい匂ひがするので

捨てがたく拾ひあげてみた

 ――――――――――
 
 もう二三年ほど前のことだ

ふと思ひ立つて、茅ヶ崎の海

邊へ行つた。その日買つたば

かりの、愛蘭土戯曲集を、自

分の好きな海邊に寢轉んで讀

みたかつたからである。

 太陽暦の上では、もう秋の

なかばであつたが、月暦つきごよみでい

ふと、その年は五月が二度あ

つたわけだから、節はおくれ

てゐた。その日などは九月の

十日であつたが、殘暑といふ

よりは、眞夏のぢりぢりと、

からだに滲み徹る暑熱の感じ

が深かつた。

 街を通りぬけて鐵道線路を

横切り、すこし行くと、松林

である。そこまで行くと、海

鳴が眞近にきこえた。太陽の

直射をさけて松林の草原に足

を投げだすと、身の廻りで鳴

く蟬がかしましかつた。

 砂丘へ出た。砂は微細な粒

で濃い鐵色である。熱氣を十

分吸ひこんで、靴をとほして

足の裏に不氣味なほてりをつ

たへるほどであつた。その砂

丘の上に立つと、眼の前に、

鰹の背色をした海が、ひろび

ろと眺められる。眞夏の海邊

によくみるやうに、入道雲が

むくむくと白く湧きあがつて

ゐる。それは海の藍碧こんぺきと相對

して、鮮かな感じであつた。

入道雲といふものは不思議な

雲だ。それは生いきとした夏

の天地に漲る、强烈な力と魅

惑を、見る人に與へ、それ自

身、夏の最もよき象徴である

高山の頂上にもよくひつかか

つてゐるやつだ。じつとみつ

めてゐると、いつまでも動か

うとはしない。が、こつちが

じれてちょつと眼を外らすは

づみに、ふいとあの大きな塊

を消して了ふのだ。あの雲は

その名のやうに、素直な人間

の心を見抜き、人間にからか

惡戯者いたづらものなのだ。いや妖術師

かも知れない。氣味のわるい

雲だ。…自分は漫然とそん

なことを考へ乍ら、日蔭を探

して本のページに紙切りナイフを

あてた。

 自分は愛蘭土が好きである

その國の詩や戯曲を通じて、

愛蘭土の人びとと山川風物に

特別な親しみを持つた。シン

グの戯曲に描れた海や、峡谷

の風景は、自分を育くんでく

れた故郷のにほひそのもので

あつた。カスリンとかマイケ

ルとかいふ素朴な名前は、直

ちに私の生れ故鄕の村人の面

影にぴつたりとした。私の愛

蘭土に對する憧憬や懐しさは

そのまま私のノスタルジヤで

あつた。

 私は砂丘の蔭に腹這つて、

日がかげるのを忘れて讀みふ

けつた。

 夕方であつた。再び砂丘の

上に立つて、ふと右の方をみ

ると、暮色に煙つた箱根山脈

を背にして、名高い南湖院の

白い建物が、間接光線ともい

ひたいほど軟かな夕光に彩ら

れて、黄金いろに浮き出てゐ

た。それとやや離れて樺色の

測候所の塔がみえるのだ。そ

れは繪でみる、和蘭おらんだの風車小

屋を思はせた。

 私は南湖院なんこゐんの窓を飽かず眺

めた。とひとりでに、そこの

病室で死んだ國木田獨歩の悲

壯な生涯が、心にみちあふれ

てきた。若い自分の苦節にみ

ちた人生の船旅を深く慰めて

くれたものは、自分の父母の

骨肉愛ではなかつた、弟妹の

殉情でもなかつた。それらは

みな自分にとつて、徒らに患

らはしいものでさへあつた。

それあるがために、弱い人間

である自分は、人生のかじをう

しなつたのだ。さういふ自分

にとつて一番力づよく迫つて

きたものは、獨歩の作品であ

つた。自分は獨歩の作品を讀

むと、直ぐ涙が咽喉のどに閊えた

けれども、そのたびに、激し

い眞實な愛撫と、鼓舞とを痛

感したのである。…

 砂丘に立つて、私は寂しい

氣持ちであつた。秋の夕暮れ

には、誰れでも、ふと淋しさ

に襲はれるものだが、その時

の自分の氣持は、さうふいふ漠

然としたものではなかつた。

もつとはつきりとした。荒涼

たる侘しさであつた。

 夜路は暗く、草むらはいち

めんの虫であつた。――流石

に秋だ。虫は人間の寂しさを

何よりもよく知つてゐるもの

だ。その虫よりも、もつと淋

しい人間が、ここに一人ゐる

・・さうつぶやいたが、土の

底の淋しさに堪えられないや

うに鳴きつづける虫の音は、

冴えざえとやまなかつた。

   (昭和六年十二月稿)


(越後タイムス 昭和六年十二月二十日 
     第一千四十一號 八面より)


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