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冬 近 き 空

冬 近 き 空
        菊 池 譽 志 雄


ー君。

君の好きな美しい大沼の紅葉もだん

だんといぢらしい姿になつて來まし

たし、又秋らしい、ぬくぬくとした

日和も、もう見られなくなりました。

一人一人の命から、秋ののんびりし

た心を取りのけてそれはそれは神經

質のやうな、冬がもう眼の前に近づ

いて來てゐるのです。實際僕達は細

い一本の線の上を歩いてゐるやうな

ものといはれます。何故なれば春の

やはらかい心から夏のはしやいだ空

氣へ、秋の悲しみと淋しみの氣分か

ら、全く別の世界の冬に生きやうと

してゐるではありませんか。

校庭の高い土堤のしば草の中から突

き立つてゐる、なつかしげな桐のお

ほ葉が黄色にいろづいてポトリポト

リと淋しい音を立てゝ落ちるやうに

総てのものが凋落した命を續けやう

としてゐるのです。

ー君。

ぼくはこのごろつくづく人間といふ

ものが恐ろしいといふことを感じて

ゐます。

實際そう見江るのではなく時として

はうそつきの世界に住むやうな恐ろ

しい幻想をつかむことがあります。

こう云へば君はいつも云ふ通り積極

的に考へろといふことでしやう。し

かしそれは、今のぼくに取つて次の

瞬間を考へることより危ないことに

ないはしまいかと恐れてゐます。

學校生活の單調と大なる自信とを抱

いて遠く南へ出奔したkの心持や行

爲などには少しの同情ある恐怖を感

じないわけには居られません。

總てこれ等の人間やそれから無生物

に至るまでが美しい色彩をもつて色

どられてゐるやうに見江又むかひ合つ

て話をしてゐる人間の現實以上の深

い心をのみ考へやうとしたりして自

己といふものを中心に渦巻のやうな

こんがらがつた心地になつてしまふこ

とが、度々とあるのです。

そういふ時に限つて、ぼくは外國や

日本の大人物(偏した意味で)を考へ

て、自己の立脚点を明かにしやうと

努めてゐるのです。

ー君。

ある時雨のひどい日でした。

例の倶樂部の椅子に腰を下ろして居

ました。小さなそして、長い雨がと

ゞめなく降つてわづかな弱い光が窓

から入る位のものでした。

あまりの淋しさに殆んどあつけない

心になつて、赤い色がくろづんでゐ

る玉と白い玉とが氣の遠くなつた時

に聞くやうな音を立てゝゐるのを注

意し乍ら君がよく云ふ外國のヒロス

ハアーのことや、ぼくにとつて珍ら

しい印象を何時でも呼び起すことの

出來る底力の强い光の銳い眼を持つ

てゐるー君のなまぬるい笑ひ聲など

を思ひ浮べて獨りほゝ笑んでゐまし

た。實際馬鹿なことを考へてゐたも

のだと思つてゐます。

その外ぼく等のバアテーとぼくらの

主義とは一層明らかな區劃くかくをもつて

現はされねばならぬ、などと云ふこ

とははつきりと考へたりしました。

然しそれは如何にも危かしげな事と

いふ反抗心も起きて來たのでみじめ

にも、若いぼくの頭はすつかり混亂

してしまひました。

ー君。

ぼくのへやの黄菊、白菊がそろつて咲

きました。

日本の古い歴史をなつかしく感じさ

せるものはこの花より外にないと思

つてゐます。

いつも殺風景なぼくのしつがいつにな

くやはらかい氣分が流れてゐるのも

これのためでしやう。

ー君。

もうこんな氣持のよい小春日はない

と思つてゐます。

灰をまぜたやうなにごつた雲が、南

へ南へと流れるやうになつて冬はも

う余程近づいてゐるのです。

(十一月十二日作)

(函館毎日新聞 大正五年十二月六日 一面より)



※「菊池譽志雄」名義での作品は「車窓の幻想(一)」
とこの「冬近き空」の二篇のみ。
 一錢亭16歳の時の作品。

#函館毎日新聞 #函館 #大沼公園



函館市中央図書館、国立国会図書館、所蔵

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